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大日山城(長崎県北松浦郡佐々町) 

だいたい目的の城館に行く前には最低限の調査をするのですが、日本城郭大系や長崎県中近世城館跡分布調査報告書、角川日本地名大辞典あたりに詳しく書かれていない場合には、おおむね遺構は期待できないことが多いです。


ただ、今回ご紹介させて頂く長崎県北松浦郡佐々町にある「大日山城」は、遺構はぼぼ消滅しているものの、立派な城石碑、説明板、石塔などが残されていて、思いのほか楽しめましたのでご紹介します。

現地説明板によると室町時代の地頭・佐々氏の居城とあり、青方文書によると永徳4年(1384年)の一揆契諾状の松浦党34氏中に「ささ長門守相(たすく)」の名が初めてみられ、また来島文書によると永享8年(1436年)の一揆契諾状では佐々存(たもつ)の名もあり、佐々町一帯を治めていた在地領主・佐々氏の城館であることがうかがえます。

ただ、それほど曲輪は広くなく、居城は別にあり支城として利用されていたのではないでしょうか。

また、この大日山城跡にはこの地を治めていた有力者のものと考えられている古い石塔が残されていて、その中には佐々存(たもつ)のものと考えられている石塔が存在します。





01D72_2042_20220416_090144.jpg01 大日山城の東側からの遠景


02D72_2056_20220416_090643.jpg02 昔この場所には小学校があったようでこの石垣は正門の名残でしょうか。


03D72_2046_20220416_090541.jpg03 市ノ瀬小学校の石碑


04D72_2064_20220416_090719.jpg04 写真02正門に向かって左側の石垣の様子。たぶん城館の遺構ではないと思うのですが、苔むした石垣は趣があります。


05D72_2073_20220416_090832.jpg05 大日山本?


06D72_2080_20220416_090942.jpg06 ひっそりと石像が残されていました


07D72_2083_20220416_090958.jpg07 曲輪は上下段の2段になっており、下段に大日堂があります。


08D72_2085_20220416_091032.jpg08 下段の曲輪の東側からの眺め、写真中央右に上段の曲輪に上るスロープが付けられています。


09D72_2087_20220416_091059.jpg09 上段の曲輪の様子です。中央左に石塔とその説明板、中央右の階段を上ると石碑があります。


10D72_2088_20220416_091114.jpg10 石塔の説明板、冒頭に城の説明もあります。説明板などはまずないと思っていたので感激もひとしおw

※クリックすると拡大します。



11D72_2100_20220416_091242.jpg11 石塔の様子です。沢山の石塔が残されています。


12D72_2095_20220416_091221.jpg12 説明板によると右から9番目のもの、写真中央の石塔が最古のもので、製作年代と佐々存の没年代が重なることから存の墓の可能性があるとのこと。


13D72_2112_20220416_091543.jpg13 上段の曲輪から一段上がった場所に石碑があります。最も背の高い石碑は「殉国英霊塔」。


14D72_2110_20220416_091528.jpg14 写真13の左には城石碑があります。説明板があることにも感激したのですが、まさかこんなに立派な石碑があると思わず涙


15D72_2116_20220416_091627.jpg15 松岡神社へ向かいます。途中からの上段の曲輪の眺め


16D72_2115_20220416_091622.jpg16 松岡神社の鳥居


17D72_2117_20220416_091639.jpg17 参道を進みます


18D72_2132_20220416_091933.jpg18 社殿下の石垣がいい雰囲気です


19D72_2126_20220416_091809.jpg19 社殿の様子






■参考文献

・角川日本地名大辞典  42 長崎県  (角川書店)

・現地説明板





■鳥観図

dainichiyamajiro_chokanzu1.jpg

ブログ掲載写真の大体の撮影場所を鳥瞰図の丸囲み番号で示しております。

※正確な図ではありませんのご参考程度でご覧ください。




■場 所


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小富士城(長崎県平戸市) 

小京都や小江戸と呼ばれる町はけっこう思いつきます。xx富士と呼ばれる山もまぁ思いつくものの小富士山という山はありそうであんまり思いつかないものです。でも、まさか地元長崎県に小富士山と呼ばれる山があって、しかもお城があるとなるとそれは登山欲を掻き立てられませんか。


今回は平戸市にある小富士城をご紹介します。

小富士城は、平戸松浦氏の支城とされており、円錐形の美しい山容をした小富士山山頂からは平戸島北部の海域や古江湾、薄香湾へ出入りする船の監視にはいい立地にあります。
山頂付近は東西に長く西側に曲輪が、東側は大きな岩が多く小富士神社跡があります。規模は違うものの近くの箕坪城
同様、現在ではかなり崩落しているものの総石垣の城だったと思われます。




01D34_0027_20220211_153054x.jpg01 東側からの眺め。美しい山容のためか登山好きな方が登られるようです。


02D72_9056_20220211_080710.jpg02 幸い山麓にはお住まいの方がおられて道路が通じています。付近に鉄塔があり鉄塔脇に車を停めさせて頂きました。(場所は巻末GoogleMapをご覧ください)


03D72_9071_20220211_090415.jpg03 鉄塔近くにお住まいの方に小富士山頂までの登山道がないかお尋ねしたところ、山に行くことはないのでわからないとのことでした。事前にYAMAPなどで登山ルートの情報は無いか確認しましたが探すことができませんでした。
仕方ないので鉄塔あたりから適当に山に入り直登することに。場所によってはひどい藪があり、かわしつつ山頂へ。山頂に近づくにつれて石が目につきます。


04D72_9084_20220211_091017.jpg04 山頂中央部に上ると、中央部はひどい繁みがあります。


05D72_9103_20220211_091759.jpg05 山頂部は東西に細長くなっているようで、まずは曲輪のある西側へ向かいます。岩がゴロゴロ。


06D72_9217_20220211_094602.jpg06 北側塁線に草に覆われた石積みを発見。写真中央部に開口部があり、狭いですが虎口でしょうか。開口部の右にはやや高い石積。


07D72_9224_20220211_094642.jpg07 写真06のやや高い石積みの様子。外から曲輪内に沿って石積みが見られるので虎口の一つなのでしょう。


08D72_9108_20220211_091916x.jpg08 写真07の場所から西へ移動すると草木が少なくなり散策しやすくなります。写真右下辺りの塁線に石が見えます。


09D72_9132_20220211_092351.jpg09 この城最もおすすめの石積。奇跡的に美しい姿で残されていました。この石積も崩落は時間の問題かもしれません。


10D72_9127_20220211_092316.jpg10 写真09の石積向かって右側から撮影。見ての通り右側は大きく崩落しています。


11D72_9112_20220211_091951.jpg11 同じく写真09の石積の左側の様子ですが、見る影もありません。


12D72_9149_20220211_092621x.jpg12 曲輪北側の塁線に沿って、西端へ向かいます。この辺りも石がゴロゴロしていて往時は石積があったのでしょう。


13D72_9172_20220211_093236.jpg13 小富士山山頂西側にある曲輪は、東西2段に分かれ西側が高くなっています。写真はこの高くなっている西側曲輪の様子。


14D72_9162_20220211_092900.jpg14 更に西端の様子。端っこは大きな岩が見られます。


15D72_9208_20220211_094218.jpg15 続いて東西2段に分かれた東側の曲輪の様子です。写真奥に東西を分ける段が見えます。東側の曲輪が広くなっています。


16D72_9195_20220211_093811.jpg16 東西を分ける段の南側の石。加工していない自然石を組んだ感じです。


17D72_9183_20220211_093439.jpg17 これまで北側塁線を見てきましたが、続いて南側塁線の様子を鑑賞します。低めの石積。


18D72_9245_20220211_094957.jpg18 すっかり草木に覆われていますが、中央に開口部、左右に石積があります。


19D72_9253_20220211_095047x.jpg19 草木をかき分けてみると確かに石積が見えます。


20D72_9265_20220211_095400x.jpg20 写真18の向かって右側の石積の様子です。おそらく虎口の一つと思われますが、北側塁線にあった写真06と似たような形状です。四角く石が組まれていて小さな櫓台の礎石のようです。


21D72_9272_20220211_100240.jpg21 最後に山頂部東側の小富士神社跡へ、東側は巨石が固まってあります。


22D72_9286_20220211_100609.jpg22 小富士神社跡には標柱がありました。


23D72_9283_20220211_100549.jpg23 標柱の周辺は石が組まれていて、小規模な祠があったのでしょうか。





■参考文献

・長崎県中近世城館跡分布調査報告書Ⅱ(詳説編)   (長崎県教育委員会)




■鳥瞰図

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ブログ掲載写真の大体の撮影場所を鳥瞰図の丸囲み番号で示しております。

※かなりあいまいな記憶を頼りに描いてみましたのでご参考程度でご覧ください。





■場 所



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三丸館(長崎県佐世保市) 

ゴールデンウイークも後半、ニュースを見ると川で溺れ亡くなられた方もおられて心痛みます。
山も川同様、滑落や道迷い、蛇や熊、猪など危険が沢山あります。それと大体単独行動が多いのですが、これも危険なので、より一層注意して登城したいです。


さて、今回は長崎県佐世保市にある三丸館(みつまるやかた)をご紹介させて頂きます。

三丸館について詳しいことはわかっていないものの「長崎県中近世城館跡分布調査報告書Ⅱ」によると、丘陵地から延びる尾根先にある佐世保北病院北側辺りの住宅地に築かれているようです。一方、週刊日本の城(デアゴスティーニ社)によると金刀比羅神社あたりとあり、やや違いがありますが、前者は館、後者は詰城として利用されていたのではないのでしょうか。

永録年間に行われた平戸松浦家と相神浦松浦家の戦いの第二回飯盛城攻めでは、平戸松浦家は小川内から大智庵を回るルートで小田砦を落とし、高筈峠を越えて吉岡に下って三丸館へ至り、ここで激戦となって、平戸勢は多くの犠牲者を出したといいます。



01D72_0191_20220305_111446x.jpg01 館南東からの眺め


02D72_0104_20220305_095426.jpg02 現在の館跡の様子


03D72_0096_20220305_095209.jpg03 館南側の石積


04D72_1891_20220416_072319.jpg04 詰城と思われる場所には現在金刀比羅神社が祀られています。参道は城の東側にありますが、おそらく後世にものでしょう。


05D72_1892_20220416_072337x.jpg05 鳥居、四月中旬のこの時期ツツジが咲いていました。


06D72_1903_20220416_072533.jpg06 土塁や虎口などは見られないものの削平地が東西二か所あり小規模な山城らしい雰囲気はあります。参道を上りあがった東側の曲輪は一段下がった場所にあります。二郭にあたるのでしょう。写真右は藤棚でしょうか。


07D72_1904_20220416_072536.jpg07 二郭と主郭を分かつ切岸、あまり高さはありません。


08D72_1898_20220416_072433.jpg08 何かの石碑


09D72_1937_20220416_073634.jpg09 主郭へ上る石段


10D72_1929_20220416_073532.jpg10 石段を登ると目の前に祠がありました。松浦党らしく航海の安全を祈願したのでしょうか。


11D72_1935_20220416_073610.jpg11 主郭から二郭を眺めてみました。


12D72_1919_20220416_072957.jpg12 主郭の様子


13D72_1914_20220416_072808.jpg13 主郭北側は細尾根になっています。


14D72_1915_20220416_072832.jpg14 細尾根の主郭付け根あたりは多少くびれがあって、堀切ってもよさそうです。


15D72_1923_20220416_073359.jpg15 主郭南側には竪堀らしいわずかな窪みがあります。


16D72_1939_20220416_073649.jpg16 最後に参道方面を眺めると愛宕山を望めます。東麓には飯盛城があったとされています。





■参考文献

・長崎県中近世城館跡分布調査報告書Ⅱ(詳説編)   (長崎県教育委員会)
・週刊日本の城 (デアゴスティーニ社)

・ライフさせぼweb  歴史散歩同行二人 飯盛城攻防をめぐる戦いの足跡を歩く



■鳥観図

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ブログ掲載写真の大体の撮影場所を鳥瞰図の丸囲み番号で示しております。

※正確な図ではありませんのご参考程度でご覧ください。





■場  所


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烽火山と番所(長崎市) 

城巡りをする前は主に街並み巡りをしておりましたが、ずーっと行ってみたかった重伝建地区指定の鹿児島県出水麓と入来麓、そして近辺の城館をこのGW前半で散策してきました。薩摩の特徴的なシラスのお城をすぐにでもご紹介したいところなのですが、壱岐遠征の城館もまだご紹介していないのにいつになることやらです(汗)


さて今回は地元長崎市の烽火山と番所跡をご紹介します。山の名前の通り烽火山山頂にはのろしをあげるかま跡が残されています。昔山登りもかねて登ったのですが、烽火山から延びる尾根に番所跡があると知り、のろし台とあわせて山登りしてきました。

烽火山はもともと斧山と呼ばれていましたが、島原の乱を鎮めた松平信綱は乱の後巡視のため長崎に立ち寄った際、この斧山に狼煙台を設置するように命じました。寛永15年(1638年)にのろし台が設置され、以後この山を烽火山とよぶようになったそうです。

烽火山へは番所道と呼ばれる登山道があり、この番所道に沿って烽火詰と呼ばれた遠見番が詰めた新旧二つの番所があったようです。



01D72_9775_20220226_111841.jpg01 烽火山南西の鳴滝あたりからの眺め。中央奥の山が烽火山(426m)、烽火山へは複数のルートがありますが、上りは鳴滝から七面山妙光寺を通るルート、下りは番所道で鳴滝に降りるルートにしました。(ルートは巻末の国土地理院地図をご覧ください)


02D72_9548_20220226_081229.jpg02 早速烽火山へ、途中にある七面山妙光寺の案内板です。七面山妙光寺は元禄9年(1696年)山梨県の身延七面山にて免許を得て、山内霊出の大石を用いた七面大明神の御神体をお祀りしたことが始まりとされています。長崎七高山めぐりで訪れる寺社の一つです。

※クリックすると拡大します。



03D72_9564_20220226_082428.jpg03 七面山大明神七面堂。妙光寺にはお堂がいくつかありますが、このお堂は七面大明神をお祀りしているお堂で、七面天女ともいい、法華経を信仰する人々の守護神として全国各地で信仰され七難即滅七福即生のご利益があるとされています。「七難即滅七福即生」とは世の中の七つの大難はたちどころに消滅し、七つの福が生まれるとのこと。



04D72_9581_20220226_085723.jpg04 登山道にはテープや行先表示板なども設置されていました。



05D72_9589_20220226_091624.jpg05 のろし台が見えてくると烽火山の山頂です。



06D72_9598_20220226_091736.jpg06 のろし台のかま跡、石組みがよく残っていますね。


07D72_9590_20220226_091632.jpg07 説明版もありますが見えにくくなっています。


08D72_9601_20220226_091749x.jpg08 のろし台からは長崎港や街並みが一望できます。ただこの日は霞んでいました。


09D72_9617_20220226_093135.jpg09 3ヶ所ある火入口の一つ


10D72_9621_20220226_093150.jpg10 火入口を覗いてみました


11D72_9635_20220226_094907.jpg11 そろそろ下山します。烽火山を南に下り武功山方面に向かうと鞍部が見えてきます。この鞍部は大荷床と呼ばれていて昔烽火用の薪が積まれていたらしいです。


12D72_9634_20220226_094857.jpg12 この大荷床跡には、みさき道歩会の方が行先表示板を設置して頂いています、ありがとうございます!

鳴滝方面に向かいますが、明確な登山道がわからず迷う可能性もあるので慣れない方は遠慮したほうがいいかもしれません。


13D72_9637_20220226_095829.jpg13 所々にテープを巻いて頂いていて助かります。


14D72_9638_20220226_100049.jpg14 さらに降りると尾根沿いに削平した場所が見えてきます。おそらくこの場所が旧番所と思われます。


15D72_9644_20220226_100243.jpg15 削平地は土留の石積が残されていました。


16D72_9642_20220226_100217.jpg16 背後の切岸


17D72_9653_20220226_100541.jpg17 この旧番所あたりから堀底のような窪みに沿って降ります。


18D72_9697_20220226_102945.jpg18 旧番所から更に降りると右側に石積が見えます。


19D72_9688_20220226_102429.jpg19 この場所が新番所と思われます。旧番所と比べて広い平地が確保されています。


20D72_9683_20220226_102343.jpg20 敷地内に列石も

21D72_9667_20220226_102054.jpg21 石積も旧番所と比べて敷地が広いぶん大きめです。



22D72_9737_20220226_105155x.jpg22 この場所に降りてきます。上りもこの場所を通ります。真っすぐ上ると七面山妙光寺へ、右へそれると番所道です。番所だけ散策する場合は番所道の往復がおすすめです。(場所は巻末GoogleMap「番所道入口」をご覧ください)




■参考文献

長崎県ホームページ 烽火山のかま跡
・みさき道人 "長崎・佐賀・天草etc.風来紀行"
 - 明治時代地形図の「烽火山番所道」
   - 烽火山 長崎新聞コラム「水や空」から
   -「烽火山番所道を登る」江越先生作成資料 2009年5月




■今回の登山コース

烽火山と番所ルート1
※国土地理院電子地図(3D)にGPSログの登山ルートおよび朱書きで丸囲みと名称を加筆して掲載させて頂きました。



■場 所


最後までご覧頂きありがとうございました!



志方氏館(長崎県北松浦郡佐々町) 

こんにちは!


長崎県内の城めぐりは、概ね長崎県中近世城館跡分布調査報告書Ⅰ・Ⅱを参考にさせて頂いておりますが、この報告書は遺構のよく残る城跡は縄張り図や写真、解説付きで紹介されておりますが、大多数は地図に場所だけと簡単な解説のみとなっています。

この地図と簡単な解説しかない城跡は、概ね遺構が期待できないのですが、中には城の遺構は無いものの周辺に古戦場があったり、宝塔などがひっそりと残されていたりと興味深い遺構が残る城跡が数多くあります。


その中でも、今回は北松浦郡佐々町にある「志方氏館」をご紹介します。

志方氏館については史書が無く詳しいことはわかっていないものの、志方川上流の西側丘陵地、現在の佐々町志方免あたりに紫加田氏の館があったとされ、さらに館南東にある城辻山に鳥屋城を築き一帯を治めていたようです。


佐々町ホームページによると紫加田氏は松浦第22代豊久公の第6子にして松浦始と云い、元松浦の分属である紫加田家の養子となるとあります。一方、松浦家家世伝脉属譜では、豊久の子は5子までとされ、豊久の兄弟に紫加田某瀬がおり、その子が紫加田始となっています。つまり始は豊久の甥にあたることになります。多少違いがあるものの、松浦氏の分家が紫加田家を継承したことには間違いが無いようです。


また、平戸松浦家と相神浦松浦家の戦いの際、紫加田氏は平戸松浦家につき戦ったものの、永禄6年の戦いで一族殆どが戦死したとされています。

しかし、当時3~5才位の子を早岐に落ちのびさせており、その子が現在の紫加田または志方の祖となっているとのことです。




01D72_2033_20220416_084308.jpg01 志方氏館のある集落を志方川を跨いだ東側から眺めてみました。


02D72_1960_20220416_080359.jpg02 集落へは県道227号線から2か所の入口があります。今回は南側の入口付近の邪魔にならない場所に車を停めさせて頂き、集落を通り、北側の入口を抜けて一周してきました。写真は南側の入口です。写真中央の道を登ります。その左に平べったい岩がありました。


03D72_2027_20220416_083559.jpg03 この平べったい岩は、かなりの大きさがあります。


04D72_1964_20220416_080509.jpg04 この平べったい大岩の上には稲荷大明神の石碑がありました。神様として祀られていたのでしょうか。


05D72_1968_20220416_080651.jpg05 集落は高台のあるので、坂道を登ります。狭い道なのですがGoogleMapのストリートビューでも散策できます。


06D72_1976_20220416_080936.jpg06 坂道の途中から脇道にそれると椎の木の古木があります。佐々町のホームぺージにも紹介されていて樹齢700~800年以上のものらしいです。


07D72_2000_20220416_081401.jpg07 椎の木の古木のすぐ上には馬場の跡とされている広場があります。昔は畑地だったようですが持ち主の方が整備されたのでしょう。


08D72_1997_20220416_081334x.jpg08 馬場跡の北端には神社がありました。黒髪神社と呼ばれているようです。


09D72_1984_20220416_081128x.jpg09 神社脇には紫加田家代々のお墓があります。


10D72_1987_20220416_081150.jpg10 神社脇には石碑もありますが、読みにくい箇所や僕の知見が乏しいこともありますが、概ね永禄6年の戦いでの武勇や黒髪神社の由来が書かれているようです。


11D72_2006_20220416_081618.jpg11 馬場跡を後にして更に登ると、立派な石垣の千人堂が見えてきます。説明板によると千人堂は、獅子山大瑞庵といい、本尊は文殊菩薩とのこと。おそらく古い昔から祀られていて、永禄6年の戦いの後、千人堂と呼ばれるようになったのでしょうか。


12D72_2007_20220416_081655.jpg12 千人堂の側には石塔が祀られていました。中央の丸い石塔は「~伝育坊之塔」とあり、永禄7年の半坂合戦で暴れまわったものの、討ち死にした東光寺のお坊さん「伝育」の供養塔でしょうか。


13D72_2011_20220416_081729.jpg13 写真右端の千人堂には説明板と木碑があり、左側には千人塚の表示板があります。表示板から更に左にいくと千人塚あります。


14D72_0342_20220305_130913.jpg14 千人堂の説明板


15D72_0359_20220305_131532.jpg15 千人塚。説明板によると、千人堂から500mほど離れた所の三アールぐらいの田を人切畝町と昔から呼ばれていて、この田で千人が首を切られ流れ出た血が畔から越して流れたとの言い伝えがあるようです。この霊を祀ったのものがこの祠とされています。


16D72_0364_20220305_132112.jpg16 美しい民家の石垣がありました。


17D72_0366_20220305_132120.jpg17 千人堂入口の木碑


18D72_0370_20220305_132257.jpg18 集落を少し下ったあたりからの様子。志方氏館は馬場跡から上ったあたりのようで、現在でもお住まいの方が居られますが、写真右上あたりにあったのではないかと思われます。


19D72_2021_20220416_082828.jpg19 集落にお住まいの方によると集落北側のビニールハウスのあるあたりが人切畝町とよばれているとのことでした。今ではのどかな田畑が広がっています。






参考文献

佐々町ホームページ 志方千人堂の椎ノ木古木

佐々町ホームページ 紫加田美濃守嫩秀公の墓

・現地説明板




鳥瞰図

shikatashiyakata_chokannzu1.jpg

ブログ掲載写真の大体の撮影場所を鳥瞰図の丸囲み番号で示しております。

※正確な図ではありませんのご参考程度でご覧ください。




場  所



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しんこう

Author:しんこう
長崎市在住のしんこうと申します。50歳過ぎのいいオヤジです。佐賀県のとある山城に行った際山の中に忽然と現れる苔むした石垣に衝撃を受け山城巡りがライフワークに。それ以来このブログもすっかり城ブログに。コロナ渦中は地元長崎県内の城館を可能な限り巡るべく東奔西走。城巡りを始めた際に困ったのが登城口、登城ルートや駐車場がわからずウロウロした経験をもとにできる限り登城に困らないような情報を発信したいと考えております。

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