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陣内の館(熊本県上益城郡) 

こんにちは
三連休の方もいらっしゃると思いますが、幸い九州地方は秋晴れのいい天気。

ただ、関東地方には超大型台風19号が接近中で、被害が無いことを祈るばかり。


さて、熊本シリーズの4城目は陣内(じんない)の館跡。今回の熊本遠征は、愛藤寺城、堅志田城、岩尾城までを考えていたのですが、城友Iさんおすすめの陣内の館まで登城することにしました。

Iさん、今回の熊本遠征では大変お世話になり、ありがとうございました!


よくある土塁と空堀で囲われた方形館ですが、規模が大きく見どころが多いと思いました。
陣内の館は、詳しいことはわかっていないようで、「肥後国誌」によると、阿蘇大宮司惟時の館跡とされているようです。(「熊本県文化財報告書 第30集 熊本県の中世城跡」より)




①D70_3382①館の南側の角付近に案内板があります。真新しいコンクリートを進むと館の中へ、その右の道を進むと見事な空堀を鑑賞できます。まずは空堀から鑑賞することにしましょう。ちなみに車はこの付近ではなく、館の北東の駐車場に停めました。



②D70_3380②館の東側。左側に土塁を眺めながら進みます。往時は深い空堀があったと思われますが、かなり埋まっています。



③D70_3358③館の東隅あたり。ちょうど空堀の標柱が建てられています。



④D70_3359④写真③の標柱から左に視線を移すとこんな感じ、左が土塁で、右が館側、そして中央は空堀のようですが、空堀の館側は更に掘りこんでいるように思われます。



⑤D70_3363⑤そして写真③の標柱から右に視線を移すと立派な空堀が望めます。この空堀が一番の見どころかと思います。



⑥D70_3365⑥空堀に沿って進みます。



⑦D70_3369⑦空堀を進行方向逆に撮影。館の切岸は二段になっているようです。



⑧D70_3370⑧そして館の北側隅。



⑨D70_3367⑨北側隅はかぎ型になっていて興味深い場所です。この館の虎口は判然としておらず、写真①の入口側は切り立った尾根先になっているうえ、特に虎口を守りやすいように強化した形跡もありません。城の入口は尾根沿いの可能性が高いと思うので、折れを付けて横矢がかかるこの辺りに木橋をかけて入城してもいいのではないかと思いました。



⑩D70_3387⑩写真①に戻り、館内に入ります。館の南側は切り立った尾根先になっていて、このように見晴らしがよいです。



⑪D70_3392⑪「熊本県文化財報告書 第30集 熊本県の中世城跡」によると、140m×140mの広さとのこと。このカメラは15mの広角レンズ(35m換算)で撮影していますが、全体を捉えることはできません。



⑫D70_3400⑫館の北西側の土塁に沿って北側に進みます。



⑬D70_3405⑬途中標柱を発見。特に指定史跡になっていないので立派な案内板などは望めませんが、おそらく地域の愛好会や史談会、市町村で立てて頂いているのでしょう。このような標柱があると嬉しいものです。ありがとうございます!



⑭D70_3410⑭土塁の上に登ってみました。右に空堀が写っていますが写真⑦あたりだと思います。土塁上は二段になっていますが用途はよくわかりませんね。



⑮D70_3439⑮土塁上にも標柱を発見。



⑯D70_3433⑯右に土塁を見ながら更に北側へ



⑰D70_3423⑰館の北西側の切岸。自然地形と思いますが、ここから攻めるのは難しいですね。



⑱D70_3351⑱館の北東側に駐車場があります。ご丁寧に標柱まで。場所はGoogleMapをご覧ください。



⑲D70_3352⑲右上の林道から入ります。駐車できるのは3台前後でしょうか。手前の道は館方面。


縄張り図

jinnouchiyakata_nawabari1.jpg※熊本県文化財報告書 第30集 熊本県の中世城跡 1978  熊本県教育委員会 より転載させて頂きました。



場 所

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岡崎城(愛知県)古戦場ゆかりの城めぐり 小牧長久手の戦い ~最終回・後編~ 

こんにちは
今週末は日本全国天気が良いようで、長崎でも秋晴れの中気持ちのいい週末になりました。
長崎では、明後日10/7から三日間、長崎一番のお祭り「長崎くんち」が行われます。天気がよければいいんですがねぇ。

さて、古戦場ゆかりの城めぐりもほんとの最終回になりました。有名な合戦を切り口にして強引にお城を紹介してみましたが、これが意外と面白くて、生き残りをかけた戦国武将の悲哀や、知らなかった勇猛な武将を発見したりと、浅はかな企画にしては楽しかったなぁと感じました。次回もなにかをこじつけてお城の紹介をさせて頂きたいとは思っておりますが、今のところ具体的なアイデアは無しです。


小牧長久手の戦いゆかりの城・岡崎城の後編は、いよいよ二の丸から本丸へ入り、風呂谷曲輪へ抜け、坂谷門近辺をご紹介します。


01D70_1107.jpg01 二の丸から本丸を眺めてみました。中央の見張り台のようなでっぱりは、三方に矢玉を討つことができる射撃陣地のようです。攻め手はイヤな場所ですね。


02D70_1095.jpg02 坂谷曲輪あたりから写真01のでっぱり付近を眺めてみました。空堀が見事です!


03D70_1111.jpg03 本丸方面へ向かいます


04D70_1113.jpg04 太鼓門


05D70_1114.jpg05 太鼓門付近から空堀を見下ろしてみましたが、美しい空堀ですね。


06D70_1146.jpg06 太鼓門をくぐったあたりから振り向いてみました。この小規模な曲輪は持仏堂曲輪というらしいです。写真左の太鼓門から入り、右奥へUターンします。どのお城もそうですが真っ直ぐには入れてくれませんね。


07D70_1133.jpg07 持仏堂曲輪からの天守の眺め。ここ持仏堂曲輪から廊下橋を通って直接天守へ行けるようになっています。ここから攻められそうですが....


08D70_1130.jpg08 こんな石像がありました


09D70_1160.jpg09 本丸に向かいましょう。


10D70_1166.jpg10 本丸御門前からの天守


11D70_1168.jpg11 本丸御門前の土橋からは本丸と持仏堂曲輪とを分ける青海堀が見下ろせます。青海とは、この岡崎城を最初に築いた西郷頼嗣(青海入道)にちなむとのこと。


12D70_1180.jpg12 同じく本丸御門前の土橋から西側の空堀


13D70_1242.jpg13 本丸から見上げた天守。この天守は古写真に基づき1959年(昭和34年)に建てられました。


14D70_1184.jpg14 「アラモの碑」というらしいです。本丸御門から入ってすぐの場所にあります。説明板によると、地理学者の志賀重昂氏により建立されたもの。同氏はアラモの戦いと長篠城の戦いが似ていることに関心を寄せ、援軍を求め友軍の下に走った青年ボナムと鳥居強右衛門の強い使命感に東西の別はないと感動し、アラモ砦跡とここ岡崎城跡に石碑を建てたとのことです。あれ!?石碑を建てる場所は長篠城ではないのかな?


15D70_1196.jpg15 あんまり石像には関心を持たないのですが、馬と台座のバランスが良くてかっこいいなぁと思いました。


16D70_1219.jpg16 出世開運 龍の井 説明板によると、吉兆の度にこの井水が噴出し、龍神に注ぐ不可思議にこれを祈り出世開運の井と称えられている。とのことです。


17D70_1248.jpg17 本丸埋門


18D70_1192.jpg18 本丸南側の風呂谷曲輪へ降りてみます。


19D70_1281.jpg19 風呂谷曲輪の石垣。野面の美しい石垣が続いています。


20D70_1268.jpg20 風呂谷曲輪の石垣


21D70_1325.jpg21 本丸の東側に回ると坂谷門があります。古図を見るとこの後ろの内堀側には丸馬出があったようです。


22D70_1104.jpg22 産湯の井戸。説明板によると、徳川家康公が岡崎城内で誕生した際に、この井戸の水を汲み、産湯に使用した。とのこと。


23D70_1308.jpg23 「えな塚」というらしいです。説明板によると、この城で生まれた徳川家康のえな(胞衣)を埋めた塚で、もと本丸南にあったものをここに移した。とのこと。




場 所

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岩尾城(熊本県上益城郡) 

こんにちは
だいぶ涼しくなってきたので昨日は佐賀県の山城へ城友さんと行ってきました。
山頂の景色のよい場所では、風が心地よくて、最高に気持ちが良かったです♪
ただ、クモの巣はもちろんですが、まだまだ蚊が沢山いて、もうしばらく虫よけは欠かせないようです。

さて熊本シリーズの3城目は上益城郡山都町にある「岩尾城」をご紹介します。
岩尾城の近くには道の駅があり、天気もよかったこともあり沢山の車やバイクが停まっていましたが、おそらく目当ては岩尾城ではなく重要文化財に指定されている通潤橋でしょう。通潤橋は九州では有名な石橋で、多くの方が橋の中央部からの放水風景を見に来られます。現在は石垣の崩落で放水は行われていないようです。


岩尾城は、貞応元年(1222年)に阿蘇大宮司惟次によって愛藤寺城とともに築城され、天正十三年(1585年)に島津氏の手で攻め落とされるまで18代にわたる阿蘇大宮司の居城であったという。一国一城令によって慶長十八年(1613年)城内の建物すべてが取り壊された。(熊本県文化財報告書 第30集 熊本県の中世城跡 1978  熊本県教育委員会 より)


01_D70_3002x.jpg01 道の駅の駐車場から岩屋城を眺めてみました。中央から左が岩屋城で、右端に通潤橋。通潤橋へは中央の端を渡って、右側に進みます。



02_D70_2981x.jpg02 通潤橋を近くから撮影。美しい石橋ですね。水に恵まれなかった白糸台地へ水を送るために嘉永7年(1854年)に架けられました。2018年5月の豪雨で橋の石垣が崩落し、現在放水は中止されているようです。


03_D70_2802x.jpg03 通潤橋はこれまでにして、岩屋城へ向かいます。写真01中央の橋を渡り、真っ直ぐ進み、道なりに進みます。


04_D70_2810x.jpg04 岩屋城は現在公園となっていて、通潤橋の観光とあわせて散策されている方もいるようです。写真は二の丸の南側に一段下がった曲輪。


05_D70_2811x.jpg05 二の丸南側曲輪から通潤橋側を見下ろすと、このような取水・通水施設が見えます。写真手前の用水路(写ってません)からこの場所に取水し、橋に通してある三本の石管へ水を流しこんでいるようです。



06_D70_2832x.jpg06 二の丸南曲輪で通潤橋を鑑賞した後、二の丸に上がってみました。


07_D70_2835x.jpg07 二の丸の標柱


08_D70_2845x.jpg08 大手門から続く登城道を二の丸北側に向けて進んでいきます。この辺りは坂虎口のようになっていて、左頭上から矢玉が飛んできそうなイヤなところです。


09_D70_2848.jpg09 登り上がると虎口のようですが、二の丸北側の堀切のようです。


10_D70_2842x.jpg10 二の丸北側の堀切。かなり埋まっていますね。


11_D70_2838.jpg11 堀切を抜けると広々とした場所にでてきます。写真左の森に隠れた場所が本丸。そして、その右に三の丸が続きます。


12_D70_2860x.jpg12 この近辺は、写真のように弧を描くような狭い山道が続きます。こういった地形なのでしょう。


13_D70_2876x.jpg13 それでは本丸へ!中央の階段は後世のもののようです。往時は写真右から回り込んで入城したものと思われます。


14_D70_2883x.jpg14 本丸。本丸には城山神社があり通称、若宮さんと呼ばれているようです。菅原道真公と阿蘇氏17代の神霊が祀られています。


15_D70_2884x.jpg15 本丸の標柱


16_D70_2917x.jpg16 本丸東側の帯郭の様子。写真右側には土塁が残存しています。


17_D70_2932x.jpg17 三の丸の様子。家臣の屋敷でも建てられていたのでしょうか。


18_D70_2955x.jpg18 城の北側にある大手口付近。


19_D70_2964x.jpg19 浜の館。現在矢部高校になっています。案内板によると、承元元年(1207年)阿蘇大宮司惟次が南郷より矢部に移り居館「浜の館」とした場所とのこと。平時は浜の館で生活し、有事の際は岩屋城に立て籠もったようです。写真の礎石群は建物の一棟で東に15m移動し、復元したとのこと。


20_D70_2966x.jpg20 近くの水路。館を取り巻く堀跡に見えてきました(^^;




縄張り図

iwao_nawabari1.jpg※熊本県文化財報告書 第30集 熊本県の中世城跡 1978  熊本県教育委員会 より転載させて頂きました。




場 所

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岡崎城(愛知県)古戦場ゆかりの城めぐり 小牧長久手の戦い ~最終回・前編~ 

こんにちは
今週末は三連休の方も多いと思います。ただ、台風接近中で明日22日は自宅に籠ります(T_T)
さて、古戦場ゆかりの城めぐり最終回は岡崎城。見どころ多く前後編二回シリーズになります。


岡崎城と言えば皆さんご存知の通り徳川家康公誕生の城。
小牧長久手の戦いでは、天正12年(1584年)4月 小牧山城、犬山城近辺で睨みあいが続く中、池田恒興、森長可、堀秀政、羽柴秀次 各隊あわせて2万が岡崎城を攻め、後方をかく乱するために出陣します。しかし、徳川家康に察知され、岡崎城は攻められることなく、戦いは終結します。

岡崎城は、龍頭山と呼ばれる乙川北岸の半島状の丘陵地に、15世紀三河守護仁木氏の守護代西郷頼嗣により築城されたとされています。文明年間には松平信光の攻撃を受け松平氏の城となり、徳川家康の祖父にあたる松平清康が本拠地を明大寺城から岡崎城に移したことにより、城郭が整備されていきます。
その後、松平氏は今川義元に下り、しばらく今川氏の武将が入るものの、桶狭間の戦いにより松平氏のもとに戻り、ここから天下統一の歩みを進めていくことになります。


01D70_0944.jpg01 名鉄・岡崎公園前駅で下車。オカザえもんがお出迎えです♪


02D70_0947.jpg02 伊賀川にかかる竹千代橋を渡ります。中央に岡崎城天守の屋根が見えます。


03D70_0953.jpg03 案内板

※クリックすると多少拡大します。


04D70_0951.jpg04 近くに竹千代像


05D70_0983.jpg05 本丸南側の内堀の様子。右側は風呂谷曲輪と呼ばれています。


06D70_1002.jpg06 本丸東側にある辰巳櫓


07D70_1014.jpg07 辰巳櫓を北側から


08D70_0994.jpg08 東曲輪の南側は現在広場になっています。往時は幅の広い帯曲輪に内堀が掘られていました。今日は子供たちがラグビーの練習でしょうか。


09D70_1021.jpg09 東曲輪南西側には見ごたえのある石垣が見られます。


10D70_1024.jpg10 一方、東曲輪南東側は土塁になっています。


11D70_1026.jpg11 東曲輪東端にある東隅櫓の傍には三の丸への虎口があります。


12D70_1034.jpg12 この虎口は食い違いになっていて、通ると楽しいです♪


13D70_1035.jpg13 左に折れます


14D70_1040.jpg14 更に進んで振り向いたところ。右上に東隅櫓が見えます。


15D70_1042.jpg15 三の丸に入ったところに浄瑠璃姫供養塔があります。浄瑠璃姫とは平安末期、岡崎の矢作宿に住んでいた源中納言兼高の娘で、奥州へ向かう源義経が兼高の屋敷に逗留した際に結ばれるが、義経が旅立った後、別れの悲しみに耐えられず、乙川に身を投げたとされています。


16D70_1046.jpg16 東曲輪の東端には2010年に復元された東隅櫓が建てられていて、中に入ることができます。


17D70_1058.jpg17 大手門。ただ、本来の大手門はここではなかったようです。


18D70_1110.jpg18 二の丸の様子。中央左に「三河武士のやかた家康館」、右にからくり時計。


19D70_1063.jpg19 大手門のすぐ近くにある二ノ丸御殿の井戸。井戸の中の石組は往時のものと思われますが、四角の真新しい石組は近年のものでしょうから、二の丸一帯の表層はかなり改変されているのでしょう。


20D70_1065.jpg20 二の丸北西あたりに立派な「三河武士のやかた家康館」があります。ここの展示物はまったく記憶になくて、どうやら入館しなかったようです。入口付近で武将隊のイベントが催されていました。


21D70_1068.jpg21 徳川家康公銅像。昭和40年に家康公350年祭を記念して彫刻家高村泰正氏によって製作されたとのこと。


22D70_1087.jpg22 三河武士のやかた家康館脇にある「しかみ像」、原画は徳川美術館が所蔵しているようで、一度は原画を拝見したかったです。一般的には、三方ヶ原で起こった武田信玄と徳川家康との合戦で、家康は命からがらに敗走、この敗戦を肝に銘ずるためにその姿を描かせたとされているようですが、諸説あるようです。



場 所

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堅志田城(熊本県下益城郡) 

こんにちは♪
まだまだ暑いですねぇ、今週は仕事が忙しかったこともあって、せっかくの三連休ですが、初日は家でだらぁ~としています。三連休一日ぐらいは近くの城ぐらいには行ってみようかと。

さて熊本シリーズの2城目は国の指定史跡となっている下益城郡美里町にある「堅志田城」をご紹介します。
この堅志田城ですが、2016年の熊本地震の影響か一部崩落が見られます。特に立入禁止などの案内やロープなどはありませんでしたが、Ⅰ郭以外の曲輪の立入は避けたほうが良いと思います。もし、登城される方は気を付けて行かれてください。


堅志田城は、肥後国阿蘇郡・益城郡一帯を支配していた阿蘇氏の家臣・西惟安(にしこれやす)が城主とされています。天正10年(1582)薩摩の島津氏による肥後国進攻が開始されると、その最前線として、阿蘇氏・島津氏の攻防の舞台となり、天正13年(1585)に落城しました。落城後は島津氏の番城となり、その後、廃城となったようです。


今回は、広大な城域の中でも、整備され地震の影響の少なかった、縄張り図(本ブログ下を参照下さい)の青枠の中のみ登城させて頂きました。
縄張り図を見ると、Ⅰ郭北東尾根沿いに遺構が連なっているようなので、林道入口付近にある梅林神社上あたりから藪漕ぎしても面白いかもしれません。


①D70_3348k①山城にも関わらず、道は狭いもののⅠ郭そばまで車で来ることができます。階段上の土壇は既にⅠ郭。つまり車のある辺りは帯郭になっています。
尚、堅志田城へは県道105号線・美里町カントリーパーク入口付近から入ります。詳しい場所はGoogleMapをご覧ください。


②D70_3350k②写真①の背後は、このような感じ。写真左端の舗装路から入りましたが、帯曲輪は壊されているようです。でも、ある程度整備されないと貴重な遺構を容易にみれないというジレンマもあります。


③D70_3307k③写真②の中央奥あたり。その先は落ちていて、どうやら堀切のようです。


④D70_3308k④近くにある説明板によると、その奥にいくつもの堀切を施した連続堀切とのこと。藪がなければきれいに見えるはずなのに残念です。
説明板をよく見るとこの堀切は完全に堀切っていないようで、写真③は左側に、④は右側に土橋のようなものを残しています。土橋を通って蛇行して進める感じ。ある程度城兵の通行を考慮したのでしょうか。面白いですね。

※クリックすると多少拡大します。


⑤D70_3305k⑤説明板

※クリックすると多少拡大します。


⑥D70_3341k⑥連続堀切を横から撮影


⑦D70_3346k⑦同じく連続堀切を横から撮影


⑧D70_3313k⑧Ⅰ郭。発掘調査の結果、掘立柱の建物が二棟あったとのこと。


⑨D70_3312k⑨説明板

※クリックすると多少拡大します。


⑩D70_3322k⑩Ⅰ郭北端には土壇が造られています。


⑪D70_3327k⑪土壇上はこんな感じ。敵情を見張る櫓台でもあったのかと思いきや、発掘調査の結果、掘立柱の建物があったとのことで、説明板によると戦いの神様を祀った社ではないかとのこと。さすがは阿蘇大宮司の家臣です。


⑫D70_3329k⑫土壇上から眺めたⅠ郭の様子。


⑬D70_3325k⑬土壇上から東側に目を移すとすぐにⅡ郭の西端部が見えます。


⑭D70_3326k⑭土壇の説明板

※クリックすると多少拡大します。

⑮D70_3335k⑮Ⅰ郭東側の帯曲輪の様子。


⑯D70_3337k⑯Ⅰ郭東側の帯曲輪から下に降り、向かいのⅡ郭に取りつくことができたようですが、崩落していて降りることができません。写真左側はⅠ郭ですが、階段の付いたⅡ郭の間には深い堀切が見えます。


⑰D70_3330k⑰南東に延びる尾根沿いに造られた曲輪。木柵が設置されていて山城らしい雰囲気がありますね。でも、崩落によりここも立入できません。


⑱D70_3331k⑱Ⅰ郭南東の曲輪を別の角度から眺めてみました。



縄張り図
katashita_nawabari1.jpg

※現地案内板より転載させて頂きました。クリックすると多少拡大します。



場 所

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Author:しんこう
しんこうといいます。長崎市在住の50歳過ぎのオヤジです。かみさんと子供2人の4人家族です。よろしくお願いいたします。趣味の山登り、城や地元長崎の様子などについて発信させて頂きます。この屋根瓦は倉敷を訪れた際に、色の組み合わせが綺麗だなぁと思って撮影したものです。

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