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山浦城(佐賀県鹿島市)後編 

こんにちは♪


1月12日・13日の二日間で長崎県・対馬にある金田城、清水山城、金石城に行ってきました。

金田城は先日NHKで放送された「日本最強の城スペシャル第4弾」で最強の城に認定されたこともありますが、ちょうどこの3連休で対馬観光物産協会主催の金田城ツアーが催されたのと、「行っ得つしま 宿泊割引キャンペーン」で主要なホテルや旅館で宿泊料金が3000円引きになることも後押しとなりましたね。
割引キャンペーンは2020年2月29日までで、金田城ツアーも今後予定されるようなお話でしたのでウォッチされてはいかがでしょうか。
また「長崎しま旅わくわく乗船券」というのもあるようなので必要に応じて利用されてはいかがかと。

さて、山浦城 後編は曲輪Bからスタートします。山浦城の各曲輪の壁面は石積が取り巻いていますので、曲輪の塁線に目を配り美しい石積を鑑賞されることをお勧めします。



01D70_1653_20200103_092933_B郭01 山浦城の主要な曲輪には他の城で見かける土塁は見当たりません。


02D70_1668_20200103_093203.jpg02 曲輪B東側の石積。主郭、曲輪Bは一部崩れているものの石積が残存しており往時は総石垣作りの曲輪だったと思われます。


03D70_1680_20200103_093505.jpg03 曲輪B東側は数段の帯曲輪が造られています(写真右端)、また写真左側には階段状の夥しい石積。


04D70_1687_20200103_093659.jpg04 階段状に積まれた石積の一つ。


05D70_1700_20200103_093931.jpg05 ただ、石積のひとひとつは高さがありません。低い石積を階段状に積むことによって高さを確保している感じです。高石垣は高い技術が必要なのでしょう。


06D70_1701_20200103_093950BC郭間06 曲輪Bの北端あたり。曲輪の段差にも石が積まれています。


07D70_1738_20200103_094859.jpg07 見どころの一つ「三段石垣(仮称)」(縄張り図E)の上段と中段部。大岩に挟まれた急傾斜地に見事な石積がみられる場所。


08D70_1759_20200103_095214.jpg08 写真右端が下段部。写真左上に写真07の石積が写っています。佐賀県の中近世城館 第3集: 各説編2(小城・杵島・藤津地区)  (佐賀県教育委員会) によると、この設備は雨水浸食や崩壊を防ぐための砂防ダムと記載されています。最初見たときには急傾斜地に石積でスロープを作り、麓の集落に下りれる登城路ではないかと思いました。大岩が左右にあるため石積の押さえとなり、石積も安定するのではないかと。


09D70_1763_20200103_095241.jpg09 下段部の石積を正面から撮影。写真08同様、写真左上にわずかに写真07の石積が写っています。


10D70_1786_20200103_100434.jpg10 曲輪Dの東側に付けられている坂虎口


11D70_1798_20200103_100625.jpg11 曲輪Dの北側にある堀切。あんまり明瞭ではありません。


12D70_1808_20200103_100822.jpg12 曲輪Hの様子。西側(写真左)には石塁を伴う土塁らしきものがあります。特に西側の守りを強化する積極的な理由が見当たりません。自然のものかもしれません。


13D70_1816_20200103_101016.jpg13 城の北端部付近。大岩のおかげで直進できず自然の折れができています。


14D70_1820_20200103_101051.jpg14 北端部の堀切。


15D70_1827_20200103_101218.jpg15 北端部の西側には石積が見えています。自然石ではなさそうで人の手が入ってそうな石積。切岸を補強しているのか、嵩上げしているかのように見えます。


16D70_1859_20200103_102135.jpg16 細尾根の曲輪を逆時計周りに一周するように遺構を鑑賞しています。曲輪Cに戻り曲輪Cの西側の遺構を鑑賞してみます。この付近も石積が固まって見られる場所です。


17D70_1867_20200103_102252.jpg17 曲輪Cの西端には自然に造られた見張り台のような突端部が形成されています。写真の通り傾斜は急で万が一足を滑らせるとタダでは済まされません。この山浦城のある細尾根は急傾斜地にあり、危険個所だらけなので登城される場合には十分にご注意下さい。


18D70_1885_20200103_102812.jpg18 曲輪Cの東側壁面には自然石も利用した石積が続いています。漏れなく鑑賞をお勧めします。
そろそろ、下山します。


19D70_1927_20200103_111727.jpg19 帰り道は登山道を案内板に沿って下ります。炭焼き窯らしきものを発見。


20D70_1935_20200103_112003.jpg20 途中大岩がゴロンと転がっていました。


21D70_1958_20200103_113021.jpg21 麓まで降りてきました。登山道は苔の生えた石がゴロゴロしていますので、登山靴を履いて特に下山時は足元に注意して下りてください。




参考文献

佐賀県の中近世城館 第3集: 各説編2(小城・杵島・藤津地区)  (佐賀県教育委員会) 
・日本城郭大系17 長崎・佐賀 (新人物往来社)




縄張り図
yamaura_nawabari1-1.jpg※佐賀県の中近世城館 第3集: 各説編2(小城・杵島・藤津地区)  (佐賀県教育委員会) より転載させて頂きました。

※クリックすると拡大します。




場所・登城ルート

※赤線は今回の登城ルート。右側の麓から山頂にかけて二本のルートが示されています。下段が登りルート、上段が下りのルートです。上段が案内板に示されている登城ルートです。


最後までご覧頂きましてありがとうございました。



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チャリで行く史跡巡り~愛知県安城・西尾市編④本證寺~ 

こんばんは


1月に入って暖かくなったり寒くなったりで、皆さん体調管理にはご注意下さい。


さて、「チャリで行く史跡巡り~愛知県安城・西尾市編」の4回目は前回ご紹介した岩根城から南西に下った場所にある本證寺をご紹介します。
本證寺は国の指定史跡で三河一向一揆の拠点となったことで有名なお寺でこのシリーズ一番の楽しみな城郭寺院です。


普通お寺の見どころは仏像や本堂だったりで、本證寺にも県や市の指定文化財になっている仏像や本堂があります。しかし大変申し訳なくも、城の機能としての、縄張り、堀や土塁の残存度などなど戦のために造られた遺構の鑑賞が目的です(汗)


本證寺は鎌倉時代に慶円上人が開いたとされ、岡崎市の上宮寺(じょうぐうじ)、勝鬘寺(しょうまんじ)とともに三河三ヶ寺として知られています。
永禄6年(1563年)に起こった三河一向一揆は、諸説あるものの松平広忠(家康の父)の代に三河三ヶ寺に与えられていた寺内の不入権を侵したことが発端で起こり、三河三ヶ寺側に付く真宗門徒の松平氏家臣もいたため、松平一族の間で門徒方と家康方に分裂する戦いとなり、最終的に一向一揆は半年ほどで鎮圧されました。


01D70_6838.jpg01 山門前。もう少し左右の土塀が前にせり出すと、虎口に横矢がかかり防御力が増しそうな感じなのですが、


02D70_6867.jpg02 復元図。内堀に加えて外堀もあったようで驚きです。外堀はかなり埋められているようですね。


03D70_6822.jpg03 山門


04D70_6824.jpg04 山門の右側。思った以上に幅広い水堀。櫓のような鼓楼。


05D70_6833.jpg05 続いて左側。往時はハスの花が咲いていたそうな。山門の左側には赤い花、右側のハスは白い花が咲いていたそうですが、平成6年(1994年)を最後に消滅したそうです。今では地元の有志が再生に成功しており季節には花を咲かせているのでしょう。


06D70_6835.jpg06 内堀の南東端あたり


07D70_6827.jpg07 山門に向かって右端にある鼓楼。


08D70_6846.jpg08 鼓楼を北東側から。立派な隅櫓。文字通り太鼓を打って時を知らせると共に物見櫓としての機能も有していたとされています。普通の櫓と比べて二階が小さく作られているように感じます。


09D70_6829x.jpg09 本堂。県の指定文化財となっています。本證寺は三河一向一揆の際に破却され、100年後の寛文3年(1663年)に現在の本堂が再建されました。


10D70_6858.jpg10 境内の様子。


11D70_6849.jpg11 境内南側の様子。水堀に加えて土塁らしきものが残っています。往時は高い土塁があったのでしょうか。


12D70_6860.jpg12 境内西側には内堀の水を引き込み池のようになっています。


13D70_6866.jpg13 説明板。

※クリックすると拡大します。


14D70_6873.jpg14 本堂と庫裏の敷地の間にも水堀のようになっています。この水堀の東側の広くなったあたりは龍宮池と呼ばれています。


15D70_6875.jpg15 同じく水堀の西側


16D70_6880.jpg16 裏門に向かって右側に走る空堀


17D70_6889.jpg17 外堀北東角あたりから南側の土塁と空堀。このあたりが一番の見どころと思いますので、実際に行かれる方は漏れなく鑑賞下さい。


18D70_6890.jpg18 写真17とほぼ同じ場所から東側を眺めてみました。中央に空堀が走り、両脇に土塁が残されています。



参考文献
・歴史の散歩道 =三河一向一揆の舞台 本證寺を歩く=  (安城市教育委員会)



場 所

最後までご覧頂きましてありがとうございました。

山浦城(佐賀県鹿島市)前編 

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致しますm(_ _)m


お正月は天気も良く穏やかな日和も手伝って、新年最初の登城は1月3日に佐賀県鹿島市にある山浦城へ。
以前から気になっていた総石垣作りの城とのことで、やっと登城。

見どころ多く(というか城以外の紹介が多いもので汗)、前後編2回シリーズとなりました。


山浦城は比較的規模の大きな城にも関わらず、信ぴょう性のある史料では、築城者や時期、その名称でさえ明確ではないものの、鹿島市高津原の蟻尾城を拠点とする藤津大村氏から分かれた原氏の居城とされています。


北肥戦誌には、文明九年(1477年)に小城の千葉氏が藤津に侵入し、蟻尾城を陥したが、蟻尾城に拠っていた大村家親は能古見の「本城」(←おそらく山浦城のこと)に逃れたと書かれているようです。この頃には既に城が存在しており、藤津大村氏から分かれた一族が以前より山浦城のある能古見へ移り一帯を治めていたのではないかと思われます。


01D70_1483_20200103_075631.jpg01 城の近辺は城の痕跡が残ることが多いのですが地名も同様で、山浦城の麓は本城と呼ばれています。バス停も「本城」。


02D70_1491_20200103_080944.jpg02 続いて原氏の墓所のある西蔵寺。あまり見ない中国風の石造りの門。長崎市深堀町の菩提寺にも石門がありますがアーチ型の石門でちょっと違う。


03D70_1495_20200103_081120.jpg03 西蔵寺には天正18年(1590年)に建てられた庚申塔が残されています。庚申とは中国の道教の流れをくむもので、庚申塔とは庚申に由来する庚申待を長く続けた記念に建立されるとのこと。庚申待とは60日毎にめぐってくる庚申の日の夜に三尸(さんし)とよばれるものが体から抜け出し悪行や罪を天帝に報告しに行き、その罪が積み重なると命が絶たれるため、三尸が逃げないように夜通し眠らず祈る祭りだそう。武士階級には広まりそうな風習ですね。


04D70_1499_20200103_081446.jpg04 きれいな案内板です。設置されて間もないようです。山浦城までの登山道は右端のような表示板が設置されていて、あまり迷うことなく登ることができます。最初はなぜ⑪からスタートするのかと思いましたが、山頂の①を目指して登るので、数字が少なくなるほど山頂に近づくため、わかりやすいのではないかと思いました。※クリックすると拡大します。


05D70_1511_20200103_081735.jpg05 写真04から登っていくと左へ分かれる道が見えてきます。脇道右の石垣は畑のものですが凄く立派ですね。


06D70_1522_20200103_081945.jpg06 写真05の分かれ道をしばらく登ると「原屋敷」へ到着。原氏代々の居館があったのだと思います。


07D70_1523_20200103_082004.jpg07 原屋敷の山側には多少石積が残っています。ただ往時のものかわかりません。


08D70_1532_20200103_082301.jpg08 原屋敷からの登城ルートは写真上の山側に登るのではなく表示板の通り右へ(北側へ)進みます。どうやら登城ルートは一旦原屋敷へ向かい民家の上を迂回するようなルートになっているようです。行き帰り同じルートでは楽しくないので写真上の山側へ入ってみます。


09D70_1534_20200103_082432.jpg09 原屋敷の上段部に何かの遺構を見つけました。石塔か供養塔か何かが昔あったのでしょうか?「原屋敷の近くに原さんの墓がある」との記載のある史料もあり、昔、原氏の墓があったのかもしれません。


10D70_1537_20200103_082740.jpg10 更に登ると段々畑の石垣。立派な石積です。


11D70_1540_20200103_083708.jpg11 長崎県でも同様に過疎化のためか放棄された段々畑が沢山あります。それにしても、昔の人はよくこんな斜面に石を積んで畑にしようと考えたものだと思います。凄いパワー。


12D70_1552_20200103_090405.jpg12 更に登ると登城ルートに合流。あともう少し。


13D70_1560_20200103_090703.jpg13 虎口っぽい感じ。山浦城のある一体は大岩がゴロゴロしていて石積を築く石を事欠くことはなったようです。


14D70_1615_20200103_092110.jpg14 山浦城の南端直下には、見どころの一つ「登り石垣」が残っています。(縄張り図F)登り石垣を境に写真奥と手前を遮断するために造られたのだと思いますが、廃城となった後は邪魔なので崩されたのではないかと思います。


15D70_1608_20200103_091847.jpg15 登り石垣も見どころなのですが、その上に覆いかぶさるような大岩も見どころです。神話に出てきそうな大岩です。


16D70_1584_20200103_091400.jpg16 更に登り、主郭のある山頂はもうすぐ。写真中央左は堀切のようです。


17D70_1599_20200103_091607.jpg17 山浦城の南端の主郭の様子。他の曲輪も同様に幅が狭いため広いスペースが無く、多くの兵を留まらせることはできません。


18D70_1601_20200103_091658.jpg18 今迄見てきた中でも上位に食い込む立派な石碑。周辺の自然石を加工して建てられたのでしょう。「原城址」となっていますが、冒頭でも書かせて頂いたとおり城の名前は定かでなく、当時は領主の名を冠して建てたのでしょう。


19D70_1600_20200103_091625.jpg19 説明板。麓の説明板同様最近整備されたようです。※クリックすると拡大します。


20D70_1639_20200103_092659.jpg20 主郭(曲輪A)西側の様子。自然石を利用しながら要所に石を積んでいます。うまい具合に横矢がかかるようになっています。


21D70_1659_20200103_093050.jpg21 曲輪B東側の石積。主郭(曲輪A)と曲輪Bは重要な曲輪なのか石積で囲われています。


22D70_1592_20200103_091516.jpg22 前編最後の写真は山頂主郭からの眺め。今日は霞んでいました。



参考文献

佐賀県の中近世城館 第3集: 各説編2(小城・杵島・藤津地区)  (佐賀県教育委員会) 
・日本城郭大系17 長崎・佐賀 (新人物往来社)



縄張り図
yamaura_nawabari1-1.jpg

※佐賀県の中近世城館 第3集: 各説編2(小城・杵島・藤津地区)  (佐賀県教育委員会) より転載させて頂きました。
※クリックすると拡大します。



場所・登城ルート

※赤線は今回の登城ルート。右側の麓から山頂にかけて二本のルートが示されています。下段が登りルート、上段が下りのルートです。上段が案内板に示されている登城ルートです。


最後までご覧頂きましてありがとうございました。

雷山神籠石(福岡県糸島市)後編 

こんにちは♪


今年も最終日になりました。
我家では年末は大掃除。日ごろ隙あらば城攻めに邁進していることもあって僕の部屋は荒れ放題。この年末は大掃除に邁進しております。


さて前回の雷山神籠石・前編に続いて、北水門の右翼と南側水門付近をご紹介致します。
よろしければご覧ください。



01D70_6855_20190916_121319.jpg01 北水門を正面から。不思議と見飽きない石の造形美。


02D70_6863_20190916_121408.jpg02 北水門の右翼。列石が西側に続いています。写真左側にぽっかり空いた大きな穴。故意に抜いたわけでもなく、ましてや自然に抜けたわけでもないようです。右側に寄せてこの高さに開けた意図がわかりません。放流口?点検口?往時に設計された方に是非ともお聞きしたいものです。



03D70_6865_20190916_121428.jpg03 西に延びる列石を追ってみました。



04D70_6867_20190916_121448.jpg04 途中北水門を見下ろしてみました。



05D70_6873_20190916_121556.jpg05 更に登ります。



06D70_6876_20190916_121632.jpg06 列石の最後は切れていました。土砂崩れで山腹が流れてしまっているようです。



07D70_6842_20190916_121129.jpg07 北水門の立派な石碑を最後にお別れです。



08D70_6898_20190916_123221.jpg08 つづいて南水門周辺を散策してみます。南水門入口にも立派な石碑が建てられています。



09D70_6922_20190916_123657.jpg09 まず南水門へ向かう前に南西へ延びる列石を鑑賞。



10D70_6884_20190916_122956.jpg10 説明板によると、列石を基準に、版築を利用して土塁を盛っていったとあります。確かに他の神籠石では列石沿いに造られた土塁をみたことはありますが、ここ雷山神籠石ではそのような土塁はみかけなかったのですが、、、年と共に流れてしまったのでしょうか。

※クリックすると拡大します。



11D70_6887_20190916_123028.jpg11 列石は更に山上に延びていますが、途中土の中に埋もれてしまっていました。



12D70_6890_20190916_123043.jpg12 写真左下の切石は今は道路となっているあたりまで続き、更に道路を横切って写真右上方面の南水門まで延びていたようです。



13D70_6901_20190916_123242.jpg13 それでは南水門へ向かいます。



14D70_6903_20190916_123318.jpg14 南水門付近です。目立った遺構はありません。



15D70_6905_20190916_123322.jpg15 南水門あたりは水が緩やかに流れるためか元々頑丈な水門は造られなかったようです。



16D70_6909_20190916_123430.jpg16 それでも、おそらく水路には整然と切石が張られていたと思われますが、今では面影はありません。もしかして持ち去られてしまったのでしょうか?



17DSC_4989.jpg17 この写真は大分県中津市にある中津城の石垣なんですが、よく見ると左右の石垣が違っていて、左側は目地が目立つ粗い積み方になっていますが、右側はあまり目地が目立ちません。右側の石垣は神籠石の切石を持ち込んで積まれているとのことです。
一般的に時代が古いほうが粗い積み方ですが、この石垣は逆転しています。まぁ不思議。


18D70_6916_20190916_123605.jpg



場 所
<マーカの説明>
青色:北水門跡、南水門跡・南西への列石遺構
紫色:領境石
黄色:車の駐車場所
橙色:行先表示板
赤色:北側登城道(ここからの道は悪路)
緑色:南側登城道(ここからがおすすめ)


最後までご覧頂きましてありがとうございました。

チャリで行く史跡巡り~愛知県安城・西尾市編③小川城・岩根城~ 

こんばんは


今日の長崎は雨。久しぶりの週末の雨は冷たくて、今日は一日家で丸まってました。


さて、「チャリで行く史跡巡り~愛知県安城・西尾市編」の三回目は前回ご紹介した誓願寺、姫小川城から南下した場所にある、小川城と更に南にある岩根城をご紹介します。


小川城は、徳川家康の家臣・石川氏の代々の居城で、文安3年(1446年)下野から移住した石川政康が築城したとされています。また家康に仕え小牧・長久手の戦いの後に、突如出奔し豊臣秀吉の下に走った石川数正ゆかりの城です。


続いて岩根城は、関東から移住した加藤正成による築城と考えられており、その子孫には松山城を築城した加藤嘉明がいます。

もともとこのような歴史も知らず訪れた両城ですが、いずれの城も石川数正や加藤嘉明のゆかりの城となると俄然興味が涌いてくるものです(今更ですけど(汗))


01D70_6798.jpg01 まずは小川城から。現在、小川城の跡地は本城公園となり近隣の方々の憩いの場所になっているようです。「本城」の名前が往時お城であったことを伝えています。



02D70_6795.jpg02 本城公園の西側はグラウンド。往時はきっと、土塁と空堀が巡っていたと思われます。



03D70_6789.jpg03 本城公園の東側ですが、写真右側にわずかに高くなっている場所があります。土塁が残されている可能性もありますが、よくわかりません。



04D70_6792.jpg04 高くなっている場所の上には東屋が建てられています。



05D70_6791.jpg05 本城の由来が書かれていました。



06D70_6804.jpg06 石川政康の菩提寺である蓮泉寺。政康の出家した子・康頼(名を明了とした)が開いたとされています。



07D70_6802.jpg07 石碑



08D70_6807.jpg08 石川政康は関東下野にて本願寺蓮如からの誘いを受け、三河国碧海郡志貴荘村の地に移住、小川城を築城し、後蓮泉寺が建てられたとされています。



09D70_6782.jpg09 石川政康公墓所碑。蓮泉寺のすぐ近くにあります。



10D70_6783.jpg10 石川政康公墓所



11D70_6784.jpg11 墓所に由緒碑として、石川政康公の生涯が刻まれています。



12D70_6786.jpg12 石川政康公墓所の右隣に「護法有志の墓」あります。



13D70_6785.jpg13 明治に入り発された神仏分離令に対する反対運動のひとつ大浜騒動に関わるお墓です。僧侶や信者からなる護法会が神仏分離令の撤回を求めて、大浜に置かれていた陣屋へ交渉へ向かいました。ところが交渉は容易にまとまらず、役人とのもみ合いの中で役人1人が亡くなり、裁判の結果、蓮泉寺の石川台嶺と暴徒1名が死刑となり、その分骨塚として護法有志の墓が建てられました。



14D70_6809.jpg14 続いて小川城から更に南に下ったところにある岩根城ですが、ここも小川城と同様にほぼ遺構は消滅しています。



15D70_6808.jpg15 案内板がありました。案内板によると、往時岩根城は土塁と堀で囲われていたようですが、年と共に土塁は崩され、堀は埋められていったようです。



16D70_6815.jpg16 子供たちにもぜひこの地にお城があったことを知って欲しいです。



17D70_6816.jpg17 今ではすっかり公園や宅地、畑地になってしまっています。



場 所

最後までご覧頂きましてありがとうございました。

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Author:しんこう
しんこうといいます。長崎市在住の50歳過ぎのオヤジです。かみさんと子供2人の4人家族です。よろしくお願いいたします。趣味の山登り、城や地元長崎の様子などについて発信させて頂きます。この屋根瓦は倉敷を訪れた際に、色の組み合わせが綺麗だなぁと思って撮影したものです。

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