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対馬の旅~桟原城と城下町~ 

こんにちは
北部九州でようやく梅雨も明けましたが、もう8月は目の前、今年の梅雨はよく雨が降りました。昔はしとしとと雨が降っていたように記憶しているのですが、最近は局所的大雨が降るようになったように感じます。


今日は所用で大村市へ、久しぶりに好武城に行ってきましたが、草ぼうぼうで中には入れず。(涙)

対馬の旅・第四回は、金石城を後にして厳原市の中心部へ。
街の北端にある桟原城を鑑賞し、南下、城下町を散策します。



01D70_2805_20200112_145850.jpg01 まずは、桟原城(さじきばらじょう)を散策します。桟原城の跡地には現在、陸上自衛隊対馬分遣隊が置かれているため、あまりうろうろすると怪しまれそうなので、手短に鑑賞します。



02D70_2810_20200112_150045.jpg02 「朝鮮通信使幕府接遇の地」碑、桟原城は、第三代藩主・宗義真(よしざね)が1678年に18年の歳月をかけ桟原の丘に居館を築造し、藩政の最後まで歴代藩主の居館として使用されています。もともと、居館は金石城にありましたが、金石城は船着き場からの距離が近すぎて朝鮮通信使の行列が整わず、威容を示すことが出来なかったため、町の最奥部に位置する桟原城に移されたようです。



03D70_2795_20200112_145517.jpg03 国道からでも立派な石垣を鑑賞することができます。



04D70_2798_20200112_145637.jpg04 隅石は、切石を縦に積んだり、平置きしたりと積み方が独特です。



05D70_2828_20200112_150718.jpg05 桟原城を後にして、旧日新館門へ、日新館門は対馬藩主宗家の中屋敷門でしたが、幕末に藩校日新館に用いられ、江戸末期における大名家の格式を備えた武家屋敷門としては、長崎県唯一のものだそうです。



06D70_2826_20200112_150654.jpg06 藩校日新館門の説明板(クリックすると拡大します)



07D70_2850_20200112_151854.jpg07 この高麗門は桟原城の第三門として建っていましたが、1987年(昭和62年)の台風により倒壊したため、移転復元されています。



08D70_2847_20200112_151719.jpg08 道路を挟んで高麗門向かいには石塀がある城下町が残されています。



09D70_2857_20200112_152107.jpg09 旧氏江家の北側の路地、趣きがあります。



10D70_2859_20200112_152148.jpg10 写真09の路地を進むと、隅に石が置かれています。説明板によると「陰陽石の魔除け石」だそうです。屋敷の北東にあたるようで、北東は鬼門にあたるため置かれたのでしょう。



11D70_2885_20200112_152955.jpg11 続いて宮谷地区を散策します。(赤枠のあたり)※クリックすると拡大します



12D70_2882_20200112_152722.jpg12 この辺りは数百石取りの武家屋敷が残されていて、雰囲気のある石垣が残されています。



13D70_2876_20200112_152600.jpg13 宮谷地区は清水山城のある山裾にあるため、道路から上がった場所に屋敷が造られています。



14D70_2889_20200112_153311.jpg14 宮谷地区を後にして、中村地区へ (クリックすると拡大します)



15D70_2892_20200112_153421.jpg15 大歳神(オオトシノカミ)を祀る、大歳神社。神社もしっかりと石塀で囲われています。



16D70_2897_20200112_153710.jpg16 中村地区の武家屋敷は宮谷地区のものと違い家格が下がる感じです。門が小さいですね。下級武士が居住したのでしょうか。



17D70_2898_20200112_153733.jpg17 石塀の石はできる限り自然石を活用しています。写真右の石は大きすぎです。



18D70_2935_20200112_155135.jpg18 半井桃水の生誕地と伝えられているようです。「なからい とうすい」と読むようです。薄学のため、この方は存じておりませんでした。明治、大正時代に活躍した小説家とのこと。立派な門構え。



19D70_2920_20200112_154720.jpg19 宅内もきれいに整備されています。



場  所


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対馬の旅~金田城③~ 

こんにちは


4連休の方もいらっしゃると思いますが、僕は初日はお仕事でした(涙) しかも、どうやら3連休は雨のようです(涙)


前回の金田城・一ノ木戸門に続き、今回は三ノ木戸と東から南東の石垣を鑑賞して、南門で金田城はお別れです。


01D70_2609_20200112_121450.jpg01 一ノ木戸門から更に降りると黒瀬湾の湾口あたりに出てきます。


02D70_2606_20200112_121407.jpg02 立派な「金田城碑」が建てられております。(クリックすると拡大します)

石碑の左端は見えづらくなっていますが、「瀧原三郎 題」と読み取れます。ググってみると、1928~1929年(昭和3~4年)にかけて対馬要塞司令官であった瀧原三郎 少将により建立されたもののようです。石碑には、約1200年前に帰化された百済人によりこの地に築き、防人を置いてこの国境の地を守った。対馬要塞の起源。といったことが書かれています。昭和初期にこの対馬要塞の司令官・瀧原三郎 少将は、遥か昔千年以上前にも同じように他国からの侵攻に備えてこの地を守った人々と重ね合わせ、思いを馳せていたのでしょう。

右奥には大吉戸神社の鳥居がみえています。


03D70_2603_20200112_121203.jpg03 金田城の説明板(クリックすると拡大します


04D70_2611_20200112_121713.jpg04 大吉戸神社。平安時代に編纂された歴史書「日本三代実録」にも記載されているとても古い神社らしく、八幡神を祀っており、城山の守護とのことです。


05D70_2639_20200112_131249.jpg05 大吉戸神社を離れ、城壁に沿って歩きます。この辺りの城壁はほぼ崩落しています。


06D70_2647_20200112_131504.jpg06 東側の城壁を南下すると三ノ木戸が見えてきます。三ノ木戸を見下ろしてみました。


07D70_2656_20200112_131647.jpg07 多少見えにくくなっていますが説明板も設置されています。(クリックすると拡大します)


08D70_2677_20200112_132337.jpg08 三ノ木戸門口


09D70_2676_20200112_132324.jpg09 三ノ木戸を正面から。門口の右側はかなり崩れています。この門の開口部はそれ程大きくなく、幅は1.5m程ではないでしょうか。


10D70_2659_20200112_131736.jpg10 門の中にくりぬかれた石を見つけました。門柱の礎石ですかね。


11D70_2711_20200112_133111.jpg11 更に南下すると東南角石塁へ到着。金田城にはこういった土に埋められて説明板が所々に設置されています。(クリックすると拡大します)


12D70_2704_20200112_132921.jpg12 東南角の城壁はところどころ崩れています。


13D70_2713_20200112_133142.jpg13 このあたりはほぼ南東の角付近の城壁の様子です。写真左側の崩落している城壁は手前に張り出していたようです。


14D70_2722_20200112_133251.jpg14 南東角から西側の城山山頂方向に登り上がる城壁の様子。


15D70_2753_20200112_134608.jpg15 写真14の城壁上に上り南門方面に上ります。途中城壁上からの黒瀬湾の様子。


16D70_2777_20200112_135245.jpg16 城壁に沿って登ると登山道に合流します。登山道の更に上に南門があります。(クリックすると拡大します)


17D70_2778_20200112_135315.jpg17 南門は平成15年の発掘調査で見つかった門です。未だ調査中のようです。


18D70_2779_20200112_135329.jpg18 門口側壁の様子。積みなおしの可能性はありますが石垣が見られます。


19D70_2300_20200112_092454.jpg19 最後にガイドさんが見つけてくれたのですが「カギカズラ」と言うらしいです。茎にカギが付いていて他の植物に引っかけて伸びるとのこと。





地 図
kanedaki_map1.jpg

※現地案内板より転載させて頂きました。
※赤線が城壁
※[現在地]と書かれている場所が登山口





場 所


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対馬の旅~城山砲台・金田城②~ 

こんにちは


前回の金田城の城壁に続き、今回は日露戦争前の明治34年に造られた砲台跡とその関連施設、および金田城のビングシ門と二つの城門(木戸)をご紹介します。


01D70_2412_20200112_102212.jpg01 城山山頂に近づいてくると砲台関連の遺構が見えてきます。まずは、弾薬庫。万が一、弾薬庫に着弾すると大変なので砲台からやや離れ下った場所にひっそりと建てられていました。屋根の厚みが半端ではないです。1.5mぐらいはありそう。



02D70_2413_20200112_102220.jpg02 弾薬庫の近くにある井戸。三点濾過式というらしいです。3つの区画で順番に水をきれいにしていくのでしょう。



03D70_2434_20200112_103400.jpg03 そしていよいよ砲台跡に到着。ここ城山砲台には28cm榴弾砲4門が据えてあったようです。



04D70_2436_20200112_103631.jpg04 砲座の傍に観測所。敵艦を捕捉し、大砲の方角や仰角を伝える役割があったのでしょう。観測所の右側の地下には指令所があって、何かをやり取りする穴が開いていますね。



05D70_2442_20200112_103750.jpg05 続いて観測所脇の指令所に降りてみます。



06D70_2444_20200112_103809.jpg06 指令所の中はこんな感じ、立派なレンガで囲われ、おそらく天井は厚みのあるコンクリートで覆われているのでしょう。



07D70_2458_20200112_104154.jpg07 砲座の脇に、多少遠慮がちに金田城の石碑と説明板



08D70_2469_20200112_104814.jpg08 砲台跡から更に登ると城山山頂。美しい景色が望めます。



09D70_2481_20200112_105805.jpg09 山頂脇には、幕末から明治にかけて皇族・軍人として活躍された北白川宮能久親王殿下がお手植えされた竹林が残されています。



10D70_2483_20200112_113536.jpg10 一旦、来た道を戻り、金田城のビングシ門や木戸を鑑賞します。



11D70_2489_20200112_114014.jpg11 写真10からしばらく下ると、ビングシ門跡と土塁跡があります。



12D70_2503_20200112_114337.jpg12 このビングシ門跡近くにあるビングシ鞍部には掘立柱建物跡が見つかっており、金田城の中枢部と考えられているようです。この場所を守るために土塁が廻っています。赤線は土塁のラインです。



13D70_2617_20200112_130352.jpg13 土塁には開口部があり門とされているようです。唯一門柱の礎石が残されています。



14D70_2512_20200112_114915.jpg14 更に下ると二ノ木戸門跡へ。



15D70_2545_20200112_115541.jpg15 二ノ木戸門です。それにしても凄い土木量ですね。外枠の石垣に大量の石と土砂で裏込めをいれている様子がよくわかります。



16D70_2530_20200112_115327.jpg16 二ノ木戸門正面の様子。近世城郭の城門は枡形などでしっかり防備されていますが、この城門はそれほど厳重な様子は感じられません。ただ、多少窪んだ形状になっていて、門口付近の敵兵は集中攻撃を浴びせることが出来そうです。



17D70_2553_20200112_115707.jpg17 続いて一ノ木戸門跡へ向かいます。途中の道沿いにも沢山の石積を鑑賞することができます。



18D70_2556_20200112_115809.jpg18 一ノ木戸門跡近くの、とある城壁上の様子ですが、写真中央上にまるい石が置いてあります。ガイドの方によると「つぶて」ではないかとのこと。城門に近いので敵兵が攻めてきた際に投げつけようとしたのでしょう。石はつるつるなので、きっと海岸から拾ってきたのだと思います。



19D70_2559_20200112_115837.jpg19 一ノ木戸門跡に到着。



20D70_2566_20200112_120024.jpg20 一ノ木戸門跡を城外から見上げてみました。門口はかなり崩れています。予算があれば修復してもいいのでしょうが、難しいのでしょう。



21D70_2568_20200112_120037x.jpg21 一ノ木戸門に向かって左側の立派な石垣。よく見ると折れがあって、門口に対して横矢がかかる構造になっています。



22D70_2573_20200112_120149.jpg22 写真21の石垣を更に左側へ進むと、こちら側にも折れが見られます。意図的に石垣を出っ張らせて守りやすいようにしているのでしょう。



23D70_2589_20200112_120644.jpg23 一ノ木戸門に向かって右側に続く石垣。写真右側は大分崩落していますが、よく1000年以上も残っていましたね。当時の土木技術の高さがうかがえます。





地 図
kanedaki_map1.jpg

※現地案内板より転載させて頂きました。
※赤線が城壁
※[現在地]と書かれている場所が登山口





場 所


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次回は金田城③に続きます。



対馬の旅~元寇防塁・金田城①~ 

こんにちは


GoToキャンペーンというのが始まるようですね。旅行代金の半分を補助してくれるらしく、日本全国の城を見てみたいわたくしにとっては願ったりかなったりなのですが、東京をはじめ各地でコロナ感染者が増加しているように見え、基礎疾患を持つ我が身や万が一感染した場合の周りの影響を考えると、少々、悩みどころではあります。
長崎市でも7月に入って3人の感染が確認され、職場などでこの話題になると少々重たい雰囲気が流れているところです。


さて、今年1月12日~13日にかけて対馬へ行ってきました。某テレビ番組で金田城が日本「最強の城」に選ばれ、ちょうど「行っ得つしま 宿泊割引キャンペーン」や対馬観光物産協会さんが、日帰りツアーを企画されていたので、急遽対馬入りとなりました。
この日帰りツアーは往復タクシー代、現地ガイド料、国内旅行補償が含まれて5000円で、アクセスがあまり良くない金田城なので、交通手段の手配やルートの検討など準備も最小限で済ますことができ、料金も良心的なこともあり、対馬入りを大きく後押ししてくれました。

対馬へは飛行機かフェリー、高速船の何れかのルートでアクセスできます。今回は夜行便のフェリーを利用。0時05分に博多港を出発して、朝の5時前に厳原港へ着くのですが、7時ぐらいまでは船内で寝てられるので、ありがたいのです。


1月12日は金田城と城下町、桟原城、金石城へ、翌1月13日は清水山城を鑑賞して、厳原港を15:25に出発するフェリーで帰途につきました。
また、せっかくなので、早めに博多入りして、対馬へのフェリー乗船前に行ったことのなかった元寇防塁を鑑賞することにしました。



01D70_2177_20200111_151950.jpg01 元寇防塁は文永の役ののち、元の再度の来襲に備えて1276年に造られたもので、博多湾の海岸に沿って、西は今津、東は香椎まで20kmにわたって築かれていたようですが、現在では一部が残るのみとなっています。



02D70_2183_20200111_152107.jpg02 説明板の近くに土塁らしき高まりが残されているのですが、防塁は石で積まれていて、この辺りは一度発掘調査がなされ埋め戻されていたようです。おそらくのこの土塁の下には石積の防塁が埋まっているのでしょう。



03D70_2184_20200111_152123.jpg03 国指定史跡らしく立派な石碑



04D70_2203_20200111_160517.jpg04 続いて西端に位置する今津の防塁です。小ぶりの石が集まったものが続いています。防塁の頭が顔を出しているのでしょうか。



05D70_2208_20200111_160703.jpg05 説明板によると今津では最も長い3kmに亘って残されているとのこと。



06D70_2211_20200111_160727.jpg06 この辺りを境に右側は発掘の後埋戻さずそのままの状態で保存しているようです。



07D70_2216_20200111_160850.jpg07 これだと往時の状態がよく鑑賞できます。ただ、この程度の高さだと簡単に乗り越えてしまいますが、往時防塁の高さは3mぐらいだったようです。せっかくなので高さも再現して頂くと、よりよかったかもです。



08IMG_20200111_233649x1.jpg08 さて、元寇防塁を鑑賞して、フェリーに乗船。



09IMG_20200111_233805.jpg09 3連休ということもあって多くの方が乗船されていました。釣りはしないのですが釣り竿やクーラー持参の方が非常に多かったです。



10D70_2245_20200112_075658.jpg10 金田城への日帰りツアーの集合場所は「観光情報館ふれあい処つしま」。今回の参加者は8名程。



11D70_2256_20200112_085727.jpg11 ここ登山口までタクシーで移動。登山開始です。



12D70_2248_20200112_085040.jpg12 金田城は標高276mの城山に築かれた古代山城で、白村江の戦いで倭軍が唐・新羅連合軍に敗北したのち、朝鮮半島への最前線として築城されたと考えられています。



13D70_2270_20200112_090715.jpg13 金田城までは、よくある登山道を登っていくのかと思いきや、石を敷き詰めた立派な道路を登ります。この城山には日露戦争の際に造られた砲台跡があり、物資を馬で運ぶために軍用道路として造られたとのこと。



14D70_2282_20200112_091537.jpg14 谷を横切るために石を積み、水が流れるように水門も造られています。



15D70_2290_20200112_091914.jpg15 道路が通る前は角度のある山の斜面だったと思いますが、よくぞ石を削って道路にしたものだと関心します。



16D70_2296_20200112_092229.jpg16 写真15を過ぎると、フィヨルドのような複雑に入り組んだ美しい海岸線と内海を鑑賞できます。



17D70_2316_20200112_092909.jpg17 更に進むと城壁が見えてきます。ぐるりと取り囲んでいる城壁の南端部で、この場所のすぐ上には南門があります。残念ですが道路の建設でこの辺りの城壁は壊されていますね。



18D70_2768_20200112_135002.jpg18 城壁を少し降りて撮影してみました。



19D70_2337_20200112_094034.jpg19 山頂に近くなると道がジグザクになります。ここで馬を付け替えて登っていったのでしょう。



20D70_2383_20200112_100535.jpg20 道がジグザグになった折り返し場所にもしっかりと石で補強してあります。



21D70_2391_20200112_101154.jpg21 道路が城壁を横切る場所は立派な石垣を持つ城壁を鑑賞できます。





地 図
kanedaki_map1.jpg
※現地案内板より転載させて頂きました。
※赤線が城壁
※[現在地]と書かれている場所が登山口




場 所

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次回は金田城②に続きます。



俵石城(長崎市)~後編~ 

こんにちは


昨日は熊本県と鹿児島県で大雨による被害があり特に人吉市では二階建ての家が屋根を残して水没するなど大きな被害を受けられています。
数十年に一度の記録的大雨とのことですが、最近「記録的な」というフレーズをよく聞きますが、地球環境が大きく変わってしまっているのでしょう。


こんな天気の中、北部九州では大きな天気の崩れはないようなので、城友Iさんと松浦氏発祥の城、長崎県松浦市の梶谷城へお出かけしてきました。梅雨の最中ということもあり、車がスタックしてロードサービスを呼んだり(Iさん何かとご迷惑をおかけしましたm(_ _)m)、梶谷城は一応公園化されているものの曲輪の周辺は藪に覆われていたりと、この時期の登城は何かと注意が必要だと勉強になりました。

さて、俵石城の後編はこのお城一番の見どころの本丸北東端の石積からご紹介します。

01D70_0909_20191215_145730.jpg01 本丸北東端には、物見台とされている土壇、射撃陣地のような突出部と北門を鑑賞できます。この場所は登城口から曲輪の反対側な上に200m近く歩かないといけないのですが、このお城一番の見どころなのでお見逃しなく。写真は射撃陣地のような突出部です。



02D70_0884_20191215_145514.jpg02 角度を変えて写した突出部。この本丸北東端は守りが厳重なのですが、敵は城の北部の長崎氏(桜馬場城)を想定していると思いますので、この守りにはうなずけます。



03D70_0885_20191215_145530.jpg03 突出部を土塁の上から見下ろしてみました。ぎゅうぎゅうですが3方向に3人ぐらいは配置できるかもです。※赤線は土塁線



04D70_0922_20191215_145917.jpg04 物見台と突出部を少し離れて撮影。



05D70_0923_20191215_145925.jpg05 物見台と突出部のすぐ南側には北門とよばれる開口部があります。北門を城内から撮影したものです。



06D70_0935_20191215_150042.jpg06 同じく北門を本丸外から撮影。外にも石積がしっかり残されています。



07D70_0954_20191215_150301.jpg07 北門を後にして、空堀に沿って南西方面に進みます。一部欠損、崩落があるものの、こんな感じで石積がずーっと残されています。



08D70_0961_20191215_150418.jpg08 途中、土塁から空堀側に飛び出るように作られた建物の基礎のような石組。櫓台の礎石でしょうか。要所には櫓を建てて監視が必要と思いますが。



09D70_0967_20191215_150454.jpg09 本丸南側の城の外側の石積



10D70_1020_20191215_151320.jpg10 本丸南側にも開口部があり、南門と呼ぶことにします。写真の通り石積が見えます。



11D70_1029_20191215_151430.jpg11 南門周辺にも石積がよく残っています。



12D70_1047_20191215_151647.jpg12 南門を本丸外側から眺めてみました。



13D70_0108q.jpg13 俵石城は以上ですが、俵石城から降りたところに、この城の名前の由来になったと思われる「俵石」と「亀石」を鑑賞しましょう。



14D70_0111q.jpg14 まずは亀石。確かに亀の甲羅のようではあります。



15D70_0122.jpg15 亀石の近くには、俵石とよばれる円柱状の石が残されています。



16D70_0128.jpg16 このように斜面に沢山の円柱状の石が突き刺さっています。



17D70_0117.jpg17 足元にもごろごろ転がっています。マグマが冷えて収縮、固まる際にできる柱状節理なのでしょうか。




縄張図

tawaraishi_nawabari1.jpg

長崎県中近世城館跡分布調査報告書Ⅱ(詳説編)より転載させて頂きました。

※赤線は登城道



場 所




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しんこう

Author:しんこう
しんこうといいます。長崎市在住の50歳過ぎのオヤジです。かみさんと子供2人の4人家族です。よろしくお願いいたします。趣味の山登り、城や地元長崎の様子などについて発信させて頂きます。この屋根瓦は倉敷を訪れた際に、色の組み合わせが綺麗だなぁと思って撮影したものです。

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