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延岡城(宮崎県延岡市)~後編~ 

こんにちは!


前回延岡城の本丸までご紹介させて頂きましたので、今回は天守台と三ノ丸をご案内させて頂きます。





01DSC_5207_20230219_075022.jpg01 ではさっそく本丸から天守台へ登ります。遊歩道に沿って上ります。


02DSC_5210_20230219_075118.jpg02 遊歩道を上ると右手の高い場所に虎口らしい石垣が見えます。昔はここから天守台へ出入りしていたのではないかと思います。今では立入禁止になっているようです。


03DSC_5236_20230219_075601.jpg03 天守台に上りあがると、なにやら建物と奥に鐘があります。1日のうち6時から17時の間に6回鐘が付かれて撞かれていますが、昔は24時間毎時撞かれていたらしく大変なお仕事だったようです。建物は鐘守の官舎とのこと。


04DSC_5249_20230219_075837.jpg04 写真2の虎口は天守台の中ではこのようになっています。新しく遊歩道ができてから、ここからから入ることができなくなったのではないと思います。ただ遊歩道から入るのはちょっと味気なくて、この立派な石垣のある虎口から入ると趣きがあるのになぁと思いました。ただ、お年寄りの方や足の不自由な方のためにも遊歩道は必要だと思います。この日2月中旬桜が咲くには早いので緋寒桜でしょうか。


05DSC_5233_20230219_075515x.jpg05 天守台からの眺め、早朝なのでまだ十分明るくなっていないです。


06DSC_5223_20230219_075348.jpg06 鐘の脇の石碑


07DSC_5262_20230219_080230.jpg07 天守台を後にして、三階櫓跡へ。往時は天守代用とされた三階櫓が建っていたそうです。


08DSC_5265_20230219_080244.jpg08 三階櫓は江戸時代に消失したらしいのですが、幸い石垣が残されています。


09DSC_5272_20230219_080347.jpg09 三階櫓東側の石垣と延岡の町の様子


10DSC_5296_20230219_080811.jpg10 吹上坂を下りて三の丸へ降ります。写真左が三階櫓跡の石垣です。


11DSC_5297_20230219_080823.jpg11 吹上坂から見下ろした三の丸


12DSC_4981_20230219_070527.jpg12 三の丸の様子


13DSC_4997_20230219_070947.jpg13 三の丸にある石御門。まずは三の丸内から。


14DSC_5010_20230219_071245.jpg14  続いて石御門を外から。


15DSC_5005_20230219_071130.jpg15 石御門脇の石垣


16DSC_4978_20230219_070409.jpg16 そろそろ麓へ降ります。三の丸遊歩道の石積


17DSC_4963_20230219_065908.jpg17 延岡城南東の駐車場辺りまで降りてきました。歴代延岡城主の碑があります。


18DSC_4964_20230219_065933x.jpg18 延岡城案内板

※クリックすると拡大します。


19DSC_4962_20230219_065850.jpg19 冠木門


20DSC_4955_20230219_065209x.jpg20 最後に延岡城近くにあるいい雰囲気の銭湯。時間があれば城下もゆっくり周りたかったのですが残念!







■参考文献

・週刊日本の城 (デアゴスティーニ社)
・現地説明板







■登城日

・2023年2月






■縄張図

②DSC_5143_20230219_073851x※ブログ掲載写真の大体の撮影場所を朱書き丸囲み番号で示しております。

※現地説明板から抜粋、加筆させて頂きました。





■場 所



最後までご覧頂きありがとうございましたm(_ _)m



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延岡城(宮崎県延岡市)~前編~ 

こんにちは

2月に家族で宮崎を旅行しまして、その際に訪城した城館を数回にわたりご紹介させて頂きます。

宮崎は二十数年前にしばらく勤務しており、そのころはそれほどお城には興味がなかったのですが、それでも飫肥城、都於郡城、綾城の三カ所は巡っていました。今回は延岡市にある延岡城を前後編2回でご紹介させて頂きます。


延岡は昔、縣(あがた)と呼ばれ、一帯はかつて土持氏が治める地でした。ところが伊東、島津、大友の戦いの場となり、秀吉の九州侵攻後、この地には九州平定で功績のあった高橋元種が入りました。元種は以前からあった古城を改修し、2年の歳月を経て完成、縣城と名付けました。

その後高橋元種は罪人を隠した罪で領地没収となり、長崎県島原半島日野江から有馬氏が入り、3代78年間で城の修復、二階櫓、三階櫓の建造、城下町の整備を行い、このころ、城名が延岡城になったとされています。

その有馬氏も農民が隣国へ逃げ込む事件があり、その責任を問われて越後糸魚川へ移封、その後、三浦氏、牧野氏と変わり、延享4年(1747年)に内藤氏が入り8代続いて明治を迎えます。


延岡城は、五ヶ瀬川と大瀬川に挟まれた標高53mの丘陵地に築かれています。二つの川を天然の水堀とし、河川の水を引き込み内堀を巡らせていますが、現在ではすっかり埋めれているようです。
丘陵地の山頂部に天守台を設け、周りに石垣で築いた本丸、二の丸、三の丸。そこから西にやや離れた小丘陵に西の丸が築かれています。有馬氏以降の城主はこの西の丸に居館が置かれていたそうです。

延岡城といえば、一番下の隅石を外すと石垣が崩れ落ち一度に多くの敵を倒す仕掛けになっているとされる「千人殺しの石垣」が見どころです。




01DSC_4968_20230219_070011.jpg01 城南東の石碑と標柱


02DSC_5088_20230219_072938.jpg02  まずは北大手門。この門は平成4年(1992年)の発掘調査に基づき再建されたようです。


03DSC_5090_20230219_073005.jpg03 北大手門東の石垣。刻印が所々にあります。
※写真をクリックすると拡大します。


04DSC_5098_20230219_073101.jpg04 門をくぐると、目の前には千人殺しの高石垣が見える光景に城主の演出が伺えます。


05DSC_5031_20230219_071723.jpg05 北大手門の東側にある三ノ丸の西端の曲輪


07DSC_5037_20230219_071912.jpg06 三の丸から二の丸への登城道から見える千人殺しの石垣。



06DSC_5045_20230219_072206.jpg07 千人殺しの石垣のそばに井戸がありました。


08DSC_5048_20230219_072240.jpg08  千人殺しの石垣下にある説明板
※写真をクリックすると拡大します。


09DSC_5062_20230219_072530.jpg09 千人殺しの石垣全景。根石あたりが少し孕んでいて少々心配。


10DSC_5136_20230219_073733.jpg10 千人殺しの石垣西側の登城道を登ってみました。


11DSC_5159_20230219_074133.jpg11 手前は本丸へ、右は北大手門から登ってきた坂道、向かいへは二階櫓跡への三叉路


12DSC_5142_20230219_073834.jpg12 写真11から向かいの二階櫓へ


13DSC_5147_20230219_073941.jpg13 曲輪の先端部には二階櫓があったそうで、今でもほぞ穴のある礎石が残されています。


14DSC_5155_20230219_074053.jpg14 そしていよいよ本丸へ。千人殺しの石垣西の石段を上ると現れる、写真右の二階櫓門から入ります。


15DSC_5172_20230219_074310.jpg15 二階櫓門は近世城郭らしい石垣作りの枡形です。


16DSC_5176_20230219_074344.jpg16 向かいの石段を上ると本丸


17DSC_5179_20230219_074424.jpg17 門の礎石もしっかりと残されています。ただ、石材が新しくはないですか?


18DSC_5188_20230219_074602.jpg18 二階櫓門の様子


19DSC_5202_20230219_074855.jpg19 本丸の様子、写真の銅像は延岡の発展に尽力した延岡城最後の城主・内藤政挙。


20DSC_5197_20230219_074738.jpg20 本丸から眺めた二の丸と延岡の街並み





■参考文献

・週刊日本の城 (デアゴスティーニ社)
・現地説明板




■登城日

・2023年2月




■縄張図

①DSC_5143_20230219_073851x

※ブログ掲載写真の大体の撮影場所を朱書き丸囲み番号で示しております。

※現地説明板から抜粋、加筆させて頂きました。




■場 所



最後までご覧頂きありがとうございましたm(_ _)m



平田城(大分県中津市) 

こんにちは
GWが終わり連休後の仕事はなかなかしんどいです。ようやく週末になり土日はゆっくり。


さて今回は大分県中津市にある平田城をご紹介させて頂きます。中津市といっても中津城のある海岸部ではなく、奇岩の渓谷で知られる内陸部の耶馬渓にあります。

平田城は別名白米城(まつたけじょう)ともいい、建久年間に長岩城主、宇都宮一族の野仲重房が豊前の地に入り築城したと伝えられ、天正年間には平田掃部介を城番として置いたそうです。
天正15年(1587年)、黒田官兵衛が豊前国に入国すると、野仲鎮兼はこれに反抗し家臣とともに長岩城に籠りましたが、黒田勢は長岩城を攻め落とし、官兵衛は戦功のあった栗山備後守利安に野仲氏の旧領六千石を与えました。
栗山備後は平田城を改修、現在もこの時に築かれた石垣の一部が残っています。

平田城は日田往還や山国川を見下ろす丘陵地にあり、古くから人や舟が行き交う重要な場所だったのでしょう。
城は北側の北台、南側の南台に分かれ、城下を見下ろせる南台に主郭があったと思われます。南台は公園として整備され散策可能ですが、北台はフェンスで囲われていたため立ち入りませんでした。
城の南側の麓には鎌倉時代に遡る城井八幡社や、明治から大正にかけて建てられた木造三階建ての平田家住宅、大分交通耶馬溪線の駅跡や旧平田郵便局など、往時の賑わいを偲ばせる建築物や遺構が残されています。また周辺はすっかり田んぼになっていますが、往時は上町、下町と呼ばれる城下町があったそうです。



01DSC_3405_20230109_133832.jpg01 平田城の南麓からの眺め


02DSC_3436_20230109_135138.jpg02 城の東側には駐車場と有り難いことにトイレもあります。


03DSC_3441_20230109_135340.jpg03 駐車場の脇に登城口があります。登城口には説明板と幟もあります。幟は城内の各所にあって、たぶん近隣にお住まいの皆さんにて整備され、大事にされているんだろうなぁと思います。


04DSC_3444_20230109_135421.jpg04 登城口から城内に入ろうとするとすぐにゲートが見えてきます。イノシシ、シカの侵入防止の柵なので、開けたら、必ず締めましょう。その隣には縄張図もあります。


05DSC_3451_20230109_135758.jpg05 登城道は北台と南台との間の谷部に造られていて、登城口から入ると右手が北台、左手が南台です。北台はフェンスに囲われていたので、立ち入らず、南台のみのご紹介になります。谷に伸びる登城道から左手の南台に入ります。


06DSC_3459_20230109_135911x.jpg06 北台主郭の東下には小さな曲輪があります。東側から主郭に到達するにはこの小曲輪を突破する必要があります。ここに兵を待機させ防戦する必要がありますね。この曲輪の虎口は写真右端で、更に主郭へは写真左端の道を進むように、回り込ませて攻めにくい作りになっています。


07DSC_3463_20230109_135948.jpg07 登城道脇の主郭切岸には石積があります。


08DSC_3478_20230109_140205.jpg08 もうすぐで主郭に到達しますが、折り返しがあって攻めてはイヤでしょうね。


09DSC_3482_20230109_140236.jpg09 主郭虎口なんだろうと思いますが、公園化に伴い大きく改変されているのでしょう。公園化の前の状態を見てみたいです。


10DSC_3484_20230109_140308.jpg10 南台の主郭の様子。奥に立派な忠霊塔があります。


11DSC_3487_20230109_140338.jpg11 虎口脇に標柱があります。


12DSC_3477_20230109_140200.jpg12 虎口脇の標柱あたりからの東側の眺め。中央の山塊は、「立留りの景」と呼ばれ、約二百年前に一夜にして轟然と大音響を発して、巌腹崩落して今日の景をなしたというこの景は、道行く人々が、自然に立ち止まって眺めるので、この名が付いたそうです。


13DSC_3497_20230109_140501.jpg13 主郭を取り囲むように今でも往時の石積が残されているようです。写真は北東あたりの石積。


14DSC_3505_20230109_140615.jpg14 同じく北東隅の石積。石積の先には立留りの景が見えます。


15DSC_3530_20230109_141116.jpg15 北側の石積


16DSC_3520_20230109_140926.jpg16 主郭西端の様子


17DSC_3538_20230109_141318.jpg17 主郭西側から主郭を後にします。奥の林は北台の西端あたりですが、残念ですが立ち入らず。


18DSC_3543_20230109_141645.jpg18 登城道脇に「昭和天皇行幸記念碑」


19DSC_3388_20230109_133328x.jpg19 平田城の散策を終わり、城下を散策してみました。城下も色々見所多く、1本のブログになりそうですが、少しだけご紹介させて頂きます。まずは、旧平田郵便局。大正時代に建てられたそうです。現在ではアトリエやカフェとなっているようで、カフェで一休みされては如何かと。


20DSC_3412_20230109_133929.jpg20 続いて平田家住宅の表通りの門。往時の栄華が感じられます。


21DSC_3425_20230109_134258.jpg21 最後は国の有形登録文化財になっている平田家住宅の主屋と新座敷(写真左端)で、明治・大正時代に建てられた近代和風住宅です。3階建てで、3階部分は大正時代に増築したそうです。玄関も格式ある唐破風で、3階からも立留りの景が眺められ、政財界で活躍した平田氏の迎賓施設としても利用されたのでしょう。


そのほか、平田城の近辺には城井八幡社、大分交通耶馬溪線の駅跡、馬渓橋など見所多く、お城と合わせて散策すると楽しい♪小旅行になりお勧めです。




■参考文献

・日本城郭大系 第16巻 大分・宮崎・愛媛  (新人物往来社)
・現地説明板




■登城日

・2023年1月




■鳥観図

スクリーンショット 2023-05-14 152701

※ブログ掲載写真の大体の撮影場所を鳥瞰図の朱書き丸囲み番号で示しております。

※正確な図ではありませんのご参考程度でご覧ください。




■場 所



最後までご覧頂きありがとうございました。


一ツ戸城(大分県中津市)~後編~ 

こんにちは
せっかくのGW終盤ですが長崎では雨がよく降りますねぇ


GWは特に県外などへの旅行などは予定はしていないのですが、離島に帰省している友人と週末会う予定にしています。今日戻ってくるらしいのですが、船便が昨日から欠航しているとのことで予定通り戻れるか心配ではあります。昨日は地震もあり皆さん帰省からのUターンの際には交通事故など十分に注意して頂けたらと思います。


一ッ戸城の前半に続き、後編は4郭、2郭、主郭をご紹介しまして、最後に麓の大神宮上にある櫓台をご紹介させて頂きます。




01DSC_3096_20230109_102944x.jpg01 まずは4郭東端からの眺め


02DSC_3078_20230109_102709x.jpg02 4郭東の帯曲輪


03DSC_3070_20230109_101544x.jpg03 4郭東端の石積


04DSC_3100_20230109_103025x.jpg04 4郭北東隅の石積


05DSC_3123_20230109_103351x.jpg05 4郭西端の大き目の隅石


06DSC_3126_20230109_103453x.jpg06 3郭からの眺めた2郭とその上に主郭


07DSC_3127_20230109_103509x.jpg07 2郭北東隅あたり。往時はしっかり石積が取り巻いていたのだと思いますが、破却されたのかバラバラです。


08DSC_3140_20230109_103755x.jpg08 手前に2郭で、奥に主郭。


09DSC_3155_20230109_104011x.jpg09 主郭北東隅の様子。このあたりはしっかりと根石が残っていて、石積の様子から主郭石積の様子がイメージできる場所です。


10DSC_3148_20230109_103913x.jpg10 同じく主郭北東隅の根石の様子。


11DSC_3176_20230109_104404x.jpg11 主郭南東の石段。あまり近世城郭でない山城で石段の残るところは少ないのですが、明瞭に残る貴重な山城です。


12DSC_3194_20230109_104608x.jpg12 石段を主郭まで登っても、いい感じに明瞭な石段と石組みが残る枡形があります。


13DSC_3198_20230109_104636x.jpg13 主郭東端から見下ろした2郭と奥に3郭


14DSC_3200_20230109_104646x.jpg14 そして主郭の様子


15DSC_3213_20230109_104943x.jpg15 主郭中央付近には幟と沢山の立て看板。このお城が築かれている山の名前も城山ですね。奥の立て看板には瓦があり持ち帰らないでと。主郭にも瓦葺の建物があったのでしょう。


16DSC_3290_20230109_114053x.jpg16 山頂から一旦降り、山腹にある櫓台を目指します。櫓台へは前編・二枚目の写真で左側に写っている階段を登ります。


17DSC_3352_20230109_120310x.jpg17 大神宮社殿。社殿左脇の道を進みます。


18DSC_3302_20230109_114437xx.jpg18 しばらく進むと石積が見え、この石積に沿って登ります。


19DSC_3321_20230109_115205x.jpg19 すると石積が見えてきます。写真は東端あたりで、その奥は多少広くなっています。


20DSC_3341_20230109_120021x.jpg20 最後は櫓台から少し降りたあたりから見上げてみました。写真上の高まりが櫓台。右端にまとまった古い墓石がありました。






■参考文献

・現地説明板





■登城日

・2023年1月





■鳥観図

hitotudojyo_chokanzu2_20230505.jpg

※ブログ掲載写真の大体の撮影場所を鳥瞰図の朱書き丸囲み番号で示しております。

※正確な図ではありませんのご参考程度でご覧ください。




■場  所



最後までご覧頂きありがとうございました。



一ツ戸城(大分県中津市)~前編~ 

こんにちは
GWに突入しましてGWの前半・後半の天候はぐずつくものの、中盤はまずまずのようです。
僕はというとGW前に一週間の休みがとれまして静岡と東北遠征からようやく帰陣、遠征記はおってアップさせて頂くとして、今回は今年初めに登城した大分県中津市にある一ツ戸城を前・後編二回にわたりご紹介させて頂きます。

また、近くに有名な長岩城もあるため、あわせて行かれると満足感一杯な山城探訪となり、おすすめです。

現地説明板によると、建久3年(1192年)に友杉民部により築城とありますが、一方、日本城郭大系によると、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも印象深い大江広元の子孫が地頭職として下り築城したとの伝承もあり、後者の方が話題性がありますが、大江広元を祖とする家は多いらしいです。

友杉氏は、のちに中間氏、大江氏、一戸氏などと称しました。天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州平定後、黒田官兵衛が豊前国に入ると、当時の城主中間統胤はこれに従ったので、官兵衛は一ツ戸城を黒田の出城とし統胤に黒田の姓を与えてそのまま城番としました。黒田家が筑前福岡に転封された際、中間氏もこれに従い居城を去りました。黒田氏のあと細川忠興の出城となりましたが、一国一城令で廃城となりました。

一ツ戸城は日田往還を眼下に望む一ツ戸集落の北西の谷と城の南西にある神谷集落に挟まれた急峻な山塊上に築かれています。
現在でも各所に石積が残存しており、切岸やその下には多数の石が転がっていることから、多くの石積を多用した作りの城だったのでしょう。
急峻な山塊の山頂に築城されてはいるものの広い削平地があり居住はできそうですが、普段は麓の神谷集落に居館があったのではないかと思います。

大手は神谷集落にありますが、今回は近年造られた城の北側からの登山道を利用させて頂き登城しました。車も通行に邪魔にならない登山口近くの林道脇に駐車させて頂きました。



01DSC_3361_20230109_121326.jpg01 城の南側からの遠景


02DSC_2902_20230109_085024.jpg02 城の東側国道212号線から林道へ入ります。ゲートがあるのですが、かんぬきを外して中へ入ります。必ずかんぬきは元通りにして進みます。写真左側の階段を上ると神社があり、更に進むと櫓台とされている場所があるので、後編最後にご紹介させて頂きます。


03DSC_2909_20230109_091035.jpg03 林道をしばらく進むと登山口の表示板が現れ、ここから登ります。車で来られた方は道の広くなった邪魔にならない場所に停めます。僕は登山口よりかなり手前側に停めましたが、写真では登山口の先の右側にも止められそうな感じがします。


04DSC_2919_20230109_091904.jpg04 写真の通り整備されたジグザグの登山道を登ります。


05DSC_2922_20230109_093900.jpg05 尾根道に登り上がる最後難所で、急な斜面を登ります。


06DSC_2927_20230109_094943.jpg06 ようやく尾根の鞍部に上がりました。続いて西側の尾根伝いに登ります。尾根の幅は狭いので十分注意しましょう。


07DSC_2940_20230109_095435x.jpg07 瓦のようです。城域の東端部にあたり門の屋根瓦でしょうか。


8DSC_2941_20230109_095442.jpg08 更に進むと写真左側に石積を伴う土塁らしきものがあります。


09DSC_2942_20230109_095454x.jpg09 この付近は一段上がった小規模な曲輪があり、石積みが見られます。


10DSC_2947_20230109_095536.jpg10 この小規模な曲輪を進むと主郭西側の切岸に到達しますが、周辺は石が散乱していて、もともと切岸を覆う石積なのでしょう。


11DSC_2959_20230109_095744.jpg11 階段らしき石積や周辺にも積まれた石積が見られる場所です。おそらくこの階段を降りると麓の神谷集落に降りるのだと思います。


12DSC_2980_20230109_100008.jpg12 城の主要部には主郭の南側を迂回して入るような導線になっていて、攻めにくい構造になっています。主郭南側の帯曲輪を進みます。


13DSC_2991_20230109_100215x.jpg13 主郭の縁を観察すると所々に石積が見られます。


14DSC_2997_20230109_100336.jpg14 いよいよ城の主要部です。写真左には石段らしき石が見られるのでこのあたりから2郭にはいるのかもしれません。写真右奥に3郭がわずかに見えます。


15DSC_3128_20230109_103526.jpg15 2郭下から眺めた3郭の様子。一番奥に4郭がわずかに見えます。3郭は主要部で最も広い曲輪です。


16DSC_3010_20230109_100626.jpg16 4郭西端あたり。周辺には石が散乱していて一段上がった4郭は石が積まれていたのでしょう。写真左側は虎口跡となっています。


17DSC_3033_20230109_101001.jpg17 虎口跡の様子。きれいに石段が残存し、写真右上の4郭南西隅にも組まれた石積が見られます。


18DSC_3025_20230109_100849.jpg18 石段のアップ


19DSC_3035_20230109_101013.jpg19 4郭南西隅の石組みの様子


20DSC_3062_20230109_101415.jpg20 前編最後は4郭の様子。







■参考文献

・現地説明板





■登城日

・2023年1月






■鳥観図

hitodojyo_chokanzu1_20230501a.jpg


■場  所



最後までご覧頂きありがとうございましたm(_ _)m



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しんこう

Author:しんこう
山中に忽然と現れる山城の石垣に衝撃を受け山城巡りがライフワークに。そのためかいつのまにか家庭菜園ブログが城ブログに。城めぐり当初は駐車場や登城口などわからず城の目の前に来ても退却する始末に、城めぐりされる方ができる限り困らないような情報を発信したいと考えております。ちなみに「しんこう」とは小学生の時のあだ名です。
よろしくお願い致しますm(_ _)m

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