島原半島ぐるり城めぐり ~日野江城・深江城~ 

こんにちは、もうすぐ9月。暑さも朝晩和らいでいて、過ごしやすくなってきましたね。


さて、長崎県・島原半島のお城紹介の第5回は、島原半島南東部にある日野江城と深江城をご紹介します。
日野江城は、肥前の国の戦国大名・有馬氏の居城です。有馬川の河口に突き出た小高い丘にあり、南に有馬川、東の大手川が流れています。

東に大手口、西に搦手口が配されており、東の大手口は大手川に面していることから船で出入りしたのではないと考えられます。
また、織田信長が築城した安土城にしか見られない直線階段や金箔瓦の出土、海外の技術を取り入れたといわれる石垣など、他の城郭などと異なる特徴があるにも関わらず、あまり注目されておらず、また、キリシタン大名有馬氏統治の最盛期には、南蛮貿易による文化の流入や莫大な富を得ていたはずなので、今後の更なる調査が楽しみです。


深江城はの出自はよくわかっていないようですが、鎌倉幕府の命令を受けて深江浦地頭職として下向した安富頼清により、築城されたと伝えられているようです。
宅地や畑地により大きく改変されているようで、往時の遺構はほとんど残っていないようです。


1.日野江城
①DSC_0595
①二の丸から本丸(写真中央の高台)方面の眺めです。


②D70_0744M
②本丸にある案内板。写真撮影場所を赤い丸囲み番号で示しています(クリックすると拡大します)。場所はおおよそ正しいとは思いますが不正確な場所もありますので参考程度にご覧下さい。間違いがあればご連絡頂けると幸いです。
ご覧の通り、今回登城したのは東側のみなので、次回西側を楽しみにしたいと思います。


③D70_0619
③大手口付近から撮影。すぐ近くに駐車場があります。写真左側には往時ここ大手口から始まる階段が一直線に設えられていたとのことですが、現在は埋められているようです。

また、おそらくここには立派な櫓門があったと想像されますので、一直線の階段とともに再建されるとよいのですが。

④D70_0625
④写真中央部が斜面になっており階段の一部と思われます。以前、発掘調査が行われていましたので、一旦埋め戻されたようです。
緑色の線で階段場所を想像で記載してみました。


⑤D70_0628
⑤階段遺構の説明


⑥D70_0642
⑥二の丸から本丸(写真中央の高台)方面の眺めです。


⑦D70_0655
⑦二の丸の石垣の様子。


⑧DSC_0604
⑧二の丸の最上段の様子。


⑨D70_0700
⑨二の丸から本丸へ登る途中から、東側の大手口方面の眺め。


⑩D70_0747
⑩本丸南側の石積み


⑪D70_0722
⑪本丸の様子。


⑫D70_0719
⑫本丸高台にある石積み。


⑬D70_0730
⑬本丸高台の様子。


⑭D70_0734
⑭説明版。クリックすると拡大します。


2.深江城


⑮D70_0595
⑮石碑。けっこう新しかったので近年設置されたようです。


⑯D70_0603
⑯遺構はほとんどありませんが、写真右側は本丸だったようで、雰囲気は感じとれます。


⑰D70_0611
⑰出丸があったとされている場所には熊野神社があります。


場所は下図の通りです。
A : 深江城
B : 日野江城


最後まで見て頂きありがとうございます。

島原半島のお城紹介最終回は、島原の乱の舞台「原城」と「釜蓋城」をご紹介します。



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島原半島ぐるり城めぐり ~島原城・丸尾城~ 

こんにちは、まだまだ暑いですね。ただ、心持ち朝晩は少々暑さが和らいでいるようにに感じていて、これから日を追うごとに涼しくなるのではないでしょうか。


さて、長崎県・島原半島のお城紹介の第4回は、島原半島東部にある島原城と丸尾城をご紹介します。


島原城は長崎県島原市にある日本百名城の一つで、別名森岳城とも呼ばれています。
1624年(寛永元年)に松倉重政によって築城、5層の天守を中心にして、3重櫓3基、2重櫓10基など併せて60基を超える櫓や門がそびえ立つ大城郭だったようです。
築城時は既に武家諸法度により新規の築城が禁止されていた時期で、例外的な築城であったため、独立・層塔型の天守に本丸・二の丸・三の丸を並べて配置するなど当時の最新技術や考え方を取り入れた城となっています。
ただ、4万石規模の島原藩では過分な城であり、九州で力を持っている熊本の加藤氏、鹿児島の島津氏をけん制する効果も期待したのではないかとも思われます。
また、島原城は1637年(寛永14年)の島原の乱でも落城を逃れ、1792年(寛政4年)の雲仙岳の噴火・地震にも耐えましたが、明治に入り廃城令により残念ながら解体されてしまいました。


丸尾城は島原城近くの小高い丘に築城されており、築城時期は詳しくわかっていないものの、戦国時代に島原氏によって築城されたようです。
沖田畷の戦いでは、島津方の武将である猿亘信光がこの城を守り、攻めてきた龍造寺方の鍋島直茂軍と激戦を繰り広げたと言われています。
その後、丸尾城跡には島原藩深溝松平家の菩提寺である本光寺が建てられたため、遺構はほとんど残っていないようです。

1.島原城


①DSC_0561
①南東隅から撮影。石垣が屏風のように折れている様子を鑑賞できるポイントです。各種パンフレットなどにも載せられているアングルです。


②D70_0562x
②往時の本丸・二の丸の絵図。写真撮影場所を赤い丸囲み番号で示しています。場所はおおよそ正しいとは思いますが不正確な場所もありますので参考程度にご覧下さい。間違いがあればご連絡頂けると幸いです。
現在、写真左上が主要な出入り口になっていますが、絵図の通り、往時は出入口はなく近世に入って作られてものです。


③D70_0487
③現在の出入り口付近の様子です。この出入り口は往時はありませんでした。


④D70_0470
④天守。明治の廃城令で一度解体されているため、復元天守です。中は資料館になっています。島原城は古写真がなく、絵図を参考に再建されたと思いますが、独立・層塔型で破風(屋根の三角形の部分およびその飾り)が無いのは一致しているようですが、総白漆喰ではないようです。


⑤D70_0526
⑤屏風折の石垣がよくわかります。石垣を登ってくる敵に対して攻撃できるように、死角をできる限り少なくするように工夫されています。


⑥D70_0538
⑥城の東側にある水飲み場。島原は湧水でも有名な町なので、あちらこちらに趣向を凝らした水飲み場や井戸があり、日本名水百選にも選ばれています。


⑦D70_0542
⑦本丸と二の丸との間の堀。左が本丸側、右が二の丸側です。往時は本丸と二の丸の間に瓦屋根の廊下橋が渡されていたようです。
現在は城の南西側に出入り口が設けられていますが、廊下橋を再建して頂いて、往時のように二の丸から本丸へ登城してみたいものです。


⑧DSC_0584
⑧個人的には本丸虎口付近が島原城の一番の見どころではないかと思います。本丸虎口はどの城でも防備が厳重にされているところで、また、格式も大事な場所になります。②の絵図を見ても、桝形になっている上、天守に至るまでは迷路のようです。写真でも石垣が三段になっています。


⑨D70_0558
⑨本丸虎口桝形南東隅の切石。大きな切石ですね。


⑩D70_0561
⑩本丸に入ってすぐ左側の切石。登城者はもれなく目にしますので、権威の象徴として置かれたものと思われます。


⑪DSC_0570
⑪しつこいですが、この切石も大きいです。⑩写真の左奥の切石のアップです。この辺りの本丸虎口まわりは、門や塀などを整備して頂いて往時のように登城できるとわくわく感が違うと思うのですが、、、


2.丸尾城


⑫D70_0252
⑫島原藩深溝松平家の菩提寺である本光寺山門。島原市で最も古い建造物だそうです。


⑬D70_0260
⑬本光寺境内。右奥の建物は資料館ですが、まだ朝早く開いていませんでした。


⑭D70_0289
⑭松平家代々の墓所。丸尾城跡に建てられています。松平家二代藩主忠雄公をはじめ23基と灯篭14基があります。


⑮D70_0310
⑮十六羅漢石像。案内板によると、1738年(元文3年)当時の住職 実山和尚の発願により藩主忠刻公の指示にもとづき領内から17人の石工を選んで一人一体づつを刻ませたものだそうです。


⑯D70_0330
⑯墓所はこのように立派な石垣が設えられえています。


⑰D70_0335
⑰おそらく丸尾城の遺構ではなく、墓所を造営した際に築かれたものと思われます。

場所は下図の通りです。

A : 島原城

B : 丸尾城(本光寺)



最後まで見て頂きありがとうございます。
次回は、日野江城と深江城をご紹介します。


ザック購入 

こんにちは、毎日暑いですが、リオオリンピックも熱いですね。選手の皆さんは悔いのないように完全燃焼してほしいです。
さて、今日は山の日ですね。普段のニュースではめったに取り上げられない山登りの話題が取り上げられたりしてますが、山の日だからというわけではないですが、ザックを購入。
前回は2013/10に購入したようなので3年弱ぶりになります。(前回購入したザックの記事
で、またメーカはカリマーを購入。別にメーカにこだわりはないですが、色々と見て回った結果コレになりました。karrimor タトラ 20。今使っている20Lサイズのザックが既に25年くらい前のもので、そろそろ新しいのが欲しくなりました。昔とは違って、カラーのバリエーションが豊富になりましたね。こんな明るいグリーンなんて昔なかったように記憶しています。


①P8110937 
karrimor(カリマー) タトラ 20


②P8110939
デイパックより一回り大きいぐらいのサイズなのですが、ショルダーストラップもしっかりしてるし、ヒップベルトもあるうえ、ヒップペルトに小物入れがついているのも気に入りました。
全体的にしっかりと、機能的に作られているように感じました。ただ、実際に荷物を入れて山に登ってみないと実際の評価はできませんね。

③P8110947
長いことお世話になったマジックマウンテンさんのザックです。出番は少なくなると思いますが、必要に応じてまだまだ使うつもりです。


④P8070733x 

で、先週日曜日に長崎市鳴滝近辺の低山(というか城めぐりですけど、)に出かけてきました。

長崎市中心部は昔、長崎氏という豪族が治めていたところで、一部遺構が残されています。桜馬場城があった城古趾(しろのこし)、焼山城のあった八気山、そして、蛍茶屋公園そばにある武功山尾根突端砦(むこうやまおねとったんとりで)の三か所に行ってきましたので、簡単に気山のみご紹介したいと思います。

写真は城古趾から撮影した八気山です(赤い矢印)。中央のグラウンドは片淵中学校。


⑤P8070738x 

片淵中学校の脇の道路を通り、赤い線を通って気山へ登ります。


⑥P8070742
前の写真の通り入っていくとすぐに「由来碑」という石碑と祠(由来碑によると法界塔と呼ぶようです)があります。
由来碑によると、昔この地がキリシタン領であったころ、反キリシタンの人たちがこの長崎氏の居城に再三攻め、多くの犠牲者があったため、その人たちの慰霊のため法界塔を建立したとあります。

⑦P8070745
由来碑の周りには畑があり、畑の中を登ります。


⑧P8070830
畑を登りあがったところからの景色。中央の木々でこんもりした山が城古趾です。城古趾に隠れていますが、その奥が長崎港です。


⑨P8070758x 
前の写真と同じ場所ですが、この写真は山側を写したものです。烽火山に行く際に通る道なんですが、青い線は烽火山へ、赤い線が気山へ登る道です。


⑩P8070759
ところどころに石積みが見られます。長崎では山の中腹まで畑地が作らていて、石を積んで段々畑にしていた様子が山々でよく見られます。ただ、写真の石積みの上は
斜面になっているので畑地ではないように見えますが。もしかして、城の遺構でしょうか?


⑪P8070791

気山の山頂は木々に隠れて眺望は望めません。


場所は下図の通りです。
A:城古趾
B:八気山
C:武功山尾根突端砦


最後まで見て頂きありがとうございました。


島原半島ぐるり城めぐり ~鶴亀城・古城・鍋島邸~ 

こんにちは、長崎県・島原半島のお城紹介の第三回は、島原半島北部の神代地区にある鶴亀城とその出城の古城。そして鍋島邸をご紹介します。
鶴亀城や鍋島邸のある地区は、神代小路(こうじろくうじ)と呼ばれており、重要伝統的建造物群保存地区に選定され、平成18年には、都市景観大賞「美しいまちなみ大賞」を受賞している、昔ながらの城下町の風情をよく残している美しい町です。
この地域は南北朝時代にはすでに神代氏により治められていましたが、沖田畷の戦いで、龍造寺隆信に与していた神代氏は敗れ、その後、佐賀藩鍋島氏が治めることとなり、幕末まで続くことになります。


①D70_8541
①鶴亀城遠景


②koujiro1_map
②神代小路案内板。写真撮影場所を赤い丸囲み番号で示しています。場所はおおよそ正しいとは思いますが不正確な場所もありますので参考程度にご覧下さい。間違いがあればご連絡頂けると幸いです。(クリックすると拡大します)


1.鍋島邸


佐賀藩神代領の領主鍋島氏の陣屋跡に建てられた邸宅です。神代氏滅亡ののち、しばらく有馬氏が治めていましたが、豊臣秀吉の九州征伐の後、旧神代領を鍋島氏に与えています。しばらく領主不在の状況が続き、4代目の領主・鍋島嵩就からは神代に居を構え、家臣たちも居住できるように整備を行ったことで、陣屋や武家屋敷が建てられ、現在の神代小路の街並みが形作られています。


③D70_8581
③神代小路の街並み。概ね中心部になります。城下町によくある、敵が攻めてきたときに見通しを悪くするため、道を折っています。


④D70_8582
④反った石垣。武家屋敷の石垣ではあまり見たことがありません。


⑤D70_8589
⑤鍋島邸門。風格のある門構えです。石垣が丸くなっているものはあまり記憶になくて、大分県の岡城と日出城にあるぐらいでしょうか。奥は建物も兼ねた長屋門になっています。


⑥D70_8709x 
⑥鍋島邸主屋と緋寒桜。立派な唐破風が格式を感じます。今年2月に訪れた時の写真です。


⑦D70_8678
⑦鍋島邸を高台から眺めてみました。


2.鶴亀城


築城時期はよくわかっていないようですが、南北朝時代にはすでに神代氏の居城であったとされています。
天正12年3月24日(1584年5月4日)に起こった沖田畷の戦いで、龍造寺隆信は、有馬・島津の連合軍に攻められ討ち死にします。龍造寺氏に与していた、神代貴茂は有馬氏によって攻められますが落城せず、有馬氏と和議を結ぶべく多比良城に招かれ、その帰路謀殺されてしまいます。
当主を失った鶴亀城は落城し、神代氏は滅亡したと伝えれています。


⑧D70_8716
⑧本丸と二の丸を分ける堀切。道路になっています。


⑨D70_8717
⑨二の丸の虎口。


⑩D70_8720
⑩二の丸虎口すぐの石積み。往時のものか不明。


⑪D70_8722
⑪二の丸は畑地になっています。


⑫D70_8730
⑫続いて本丸へ。本丸には神代神社があるので鳥居をくぐって登城。


⑬D70_8737
⑬神代神社。京都伏見稲荷大社から分祠されているようです。


⑭D70_8743
⑭本丸を取り囲む土塁。なかなか立派です。一番の見どころかもしれません。


⑮D70_8745
⑮3m以上はありそうです。


3.古城


続いて「古城」。「ふっじろ」または「ふじろ」と呼ぶようです。尻無城とも言われているようです。海岸まで突き出た丘陵地に築かれており、出自など詳しくわかっていないようですが、南北朝時代の鶴亀城の出城と考えられています。


⑯D70_8500
⑯説明版も設置されています。この付近は古くから人々が生活しており陶磁器の破片なども出土されているようです。


⑰D70_8501
⑰当時の遺構はほとんど残ってないようですが、見ようによっては、桝形虎口に見えます。


⑱D70_8506
⑱桝形を左に折れると道を挟んで左右に畑地が見えてきます。家臣団の住居に見えなくもないです。


⑲D70_8509
⑲家臣の住居の門口(と想像しましょう)


⑳D70_8525
⑳古城東側を眺めたところです。古城は丘陵部に築城されていることがわかると思います。


場所は以下の通りです。
A:鶴亀城
B:古城
C:鍋島邸


最後まで見て頂きありがとうございました。
次回は、島原城と丸尾城をご紹介します。


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プロフィール

しんこう

Author:しんこう
しんこうといいます。長崎市在住の50歳目前のオヤジです。かみさんと子供2人の4人家族です。よろしくお願いいたします。趣味の山登り、城や地元長崎の様子などについて発信させて頂きます。この屋根瓦は倉敷を訪れた際に、色の組み合わせが綺麗だなぁと思って撮影したものです。

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