こんばんは
今回から3回にわたり佐賀県小城市にある肥前千葉氏ゆかりの千葉城とその居館や家臣団の住まいがあったとされる妙見遺跡ををご紹介させて頂きます。まずは千葉城ですが前後編2回となり、前編の城山と須賀神社周辺は9月、後編の吉田山周辺は11月に登城したものです。吉田山周辺の夏場の登城は藪や蚊、蜘蛛の巣があり大変そうだったので11月まで待つことにしました。
【歴史】
九州肥前の千葉氏とは関東下総の千葉氏の流れをくむ武士団で、鎌倉幕府創設の恩賞のひとつとして小城郡の惣地頭を得てしばらく代官を派遣して統治していましたが、蒙古襲来に伴い、この地に下向、長期化したことにより、小城への分家、土着化が始まったとされています。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で岡本信人演じる千葉常胤から数えて5代目にあたる頼胤は、蒙古襲来により出陣しましたが、健治元年(1275年)に元寇での戦傷のため小城で没したとされています。
頼胤亡きあと、肥前に下った頼胤の長男宗胤が肥前千葉市の祖とされており、宗胤は始め晴気城を居城とし、2代胤貞は國府の城とされている千葉城、3代胤泰は高田城、4代胤基は松尾城、5代胤鎮に至ってようやく千葉城に本拠を固定化したとされています。
ちなみに宗家千葉氏は宗胤の弟胤宗が当主となったが、この「胤」と「宗」を前後入れ替えた兄弟は長く争ったようです。やはり長男宗胤は宗家を継ぎたかったのでしょうかね。
千葉城の北、清水川の流域には千葉氏の居館や家臣団の住まいがあったとされる妙見遺跡があり、この遺跡の一角にある妙見社は2代胤貞の勧進とされています。
千葉氏の全盛は15世紀ごろで小城、佐賀、杵島に加えて南の藤津郡もうかがう肥前最大の勢力であったが、文明年間に入り、家督争いから家内で分裂、少弐氏と大内氏の介入により両勢力の代理戦争の場となり衰退が始まります。天文年間に入ると両者は和睦するものの、台頭する龍造寺氏の圧迫からは逃れきれず、天文14年(1545年)の龍造寺家兼の攻撃により落城、千葉城は廃城となったようです。
【遺構】
祇園側北岸の独立丘陵にあり、東側の吉田山(標高133m)のピークに主郭と複数の曲輪を要し、西側の展望台があり公園として整備されている城山、さらに西側の須賀神社のある3つの高所により構成されており、東西約900m、南北400mの大きな山城です。
主要部は吉田山をピークとした主郭周辺部で東西方向に主要な曲輪が6つ配してあります。この曲輪では明製の天目碗、青磁の瓶・壺、ベトナム産青花碗・瓶などが出土され、日常の生活品ではなく嗜好品が多く含まれていることから、武家儀礼上の饗応や礼式を行いうる御殿などの建物がこの山上の曲輪に立ち並んでいたのでしょう。
遺構としては、一部土塁や竪堀などが残存しているものの、概ね平場と切岸で構成され、技巧的な虎口や横矢などは見られず南北朝期の古いタイプの山城の形態を踏襲し、戦国期以降一部改変されているものの、大きな改変は無かったのでしょう。
02 城山北東の鞍部に駐車場があります。西端の須賀神社の麓から登城してもよいのですが楽するならこの駐車場がよいでしょう。この駐車場を起点に西側の城山と須賀神社近辺、東側の吉田山周辺を散策をするのがよいでしょう。ただ、この駐車場から吉田山へは途中道がなくなるため迷わないように注意が必要です。尚、吉田山の山頂付近には鉄塔があり、鉄塔保守のための道路と思われ、山頂付近まで道が通じているようですが、この道は通っていないため状態はわかりませんでした。
03 まずは西側の城山と須賀神社周辺から散策します。城山周辺は千葉公園として整備され展望台やテラスなどが設置されています。写真は公園入口の千葉公園の名板。上部には瓦でひさし状のものが付けられて城跡らしさも残しています。この日は9月でまだまだ草ぼうぼうです。
04 公園入口から少し歩くと展望台やテラス(写真左端)のある城山に着きます。
※クリックすると拡大します。
07 城山には一段高い場所があります。櫓台っぽい感じで、実際のトレンチ調査では掘立柱建物跡が見つかったらしく、物見用の小屋か井楼があったのではないかとのこと。
09 展望台のある曲輪から階段で一段下ると左手のテラス下に千葉城址の石碑(写真左)がありました。
13 須賀神社方面に向かう前に城山の曲輪下に穿たれている竪堀を鑑賞します。遊歩道により一部埋められてはいるもののよく残されています。
14 一旦戻り須賀神社方面へ、歩道右側に土塁らしき盛り上がりがみられます。
15 須賀神社の東には朱色でおなじみの稲荷神社です。宝貴乃森稲荷大明神だそうです。
16 そして、須賀神社です。延暦22年(803年)の創建と言われ、当初は「清祠」と称し、肥前国の佐賀・杵島・小城三郡の宗廟として栄えたと古記にあるとのこと。その後、千葉胤貞により御神体として祀られている木造を刻して山城国祇園社の御分霊を勧請「祇園社」となったとのこと。
17 須賀神社の西下に堀切があるのですが、途中石積を発見。往時のものではないと思いますが、古そうな石積です。
・佐賀県の中近世城館 第3集 各説編2 (小城・杵島・藤津地区) (佐賀県教育委員会)
・2022/9/3 (前編)
※ブログ掲載写真の大体の撮影場所を鳥瞰図の朱書き丸囲み番号で示しております。
※正確な図ではありませんのご参考程度でご覧ください。
※ブログ掲載写真の大体の撮影場所を鳥瞰図の朱書き丸囲み番号で示しております。
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最後までご覧頂きましてありがとうございましたm(_ _)m
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Author:しんこう
山中に忽然と現れる山城の石垣に衝撃を受け山城巡りがライフワークになりました。城巡りをはじめたころ登城口や駐車場などがわからず城を目の前に退却する始末に、城めぐりされる方ができるだけ困らぬようゆる~くお城のご紹介をさせて頂きます。ちなみに「しんこう」とは小学生の時のあだ名です。
よろしくお願い致しますm(_ _)m
去年夏に千葉氏サミットがあり、オンラインで参加しました。日本各地の千葉氏ゆかりの町の関係者の話がありました。小城市教育委員会の人が小城の千葉氏が千葉氏宗家と強調していたのが印象的でした。九州千葉氏は長男なので地元の人から見ればこちらが宗家と言うでしょうね。その地域に土着するとその場所の地名を苗字にする事が多いですが、九州千葉氏は自分が宗家と思っていて千葉氏を称し続けたのかと思っていました。千葉氏サミットの資料はご興味あれば以前教えて頂いたアドレスにメールでお送りいたします。
千葉城は2020年の冬に計画しましたが獅子ヶ城で時間がかかり行けませんでした。俯瞰図からも東西に細長い城で見学に時間がかかそうですね。曲輪間の遮断性は地形と切岸の段差だけで、それほどあまり高くないように思えます。
行き損なった城なので自分の感想はあくまで机上の空論ですが。
先日、戦国時代の千葉氏の居城である下総本佐倉城に行きましたが、ここも城域が広い城でした。どちらの千葉氏も戦国時代までしぶとく生き残っていましたが、江戸時代に前に没落して歴史に埋没しましたね。
史学会一兵卒さん
こんばんは、いつもコメント頂きありがとうございます。
千葉氏のサミットというのがあるのですね。知りませんでした。オンラインとのことで、僕も参加してみたかったです。もしご面倒でなければサミットの資料拝見してみたいです。
そのサミットでは小城の千葉氏が宗家と話されていたわけですね。実際、兄と弟はけんかしていたらしいですけど、この時代になっても、けんかの火種にならなければと心配してしまいますが、大丈夫なのでしょうか?
獅子ヶ城行かれたのですね、獅子ヶ城と近くの岸岳城は僕が山城に興味をもった記念すべき山城で、石垣が残るいい城ですよね。
一方、千葉城は古いタイプの山城のようで、織豊系の石垣を多用した山城への改修が無かったようで、見所は今一歩というところでした。この城の規模だと大規模な堀切が2、3あってもよさそうですが、特になく、仰る通り遮断性は不十分な感じでした。
しかも主郭西側はまったく整備されていないため散策道は無く、しかも一部の曲輪は竹藪のバリケードで難儀しました。
ですので、獅子ヶ城で時間を使われたのは正解だったと思いますね。
実は僕も東京に勤務していた際に本佐倉城に行ってきましたが、断然本佐倉城のほうが見所がありましたね。個人的にはなぜか根小屋の空堀と土塁に感激しました。
ブログには書きませんでしたが、歴史の表舞台からは消えてしまった小城・千葉氏ですが、その後はなんとか佐賀藩内で藩士に取り立てられたようで一安心しました。
次回のブログも千葉城ですが、見て頂けると嬉しいです。
ありがとうございましたm(_ _)m